ブルガリア占領区域
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/30 15:13 UTC 版)
「第二次世界大戦時のギリシャ」の記事における「ブルガリア占領区域」の解説
ブルガリアは「領土問題」を解決するために、第二次世界大戦に枢軸国側で参加しており、第二次バルカン戦争で失ったマケドニア西部、ヌイイ条約で失ったトラキア西部を取り戻し、「大ブルガリア」の回復を目指していた。1941年3月1日、ブルガリアは枢軸同盟に参加、ギリシャにおけるブルガリアの領有権主張へのドイツの支持を要請した。 1941年4月20日、ブルガリア軍はギリシャへの侵攻を開始、ドイツ軍の後衛として進撃し、ギリシャ北東部のストルマ川以東のマケドニア東部、西トラキア(トルコ国境のエビロスはドイツ軍が占領した)を占領した。ドイツ、イタリアと異なり、ブルガリアは1941年5月14日、ブルガリアの民族主義者の悲願であった同占領区域を正式に併合した。その後、大規模な「ブルガリア化」が行われ、ギリシャ側の市長、教師、裁判官、弁護士、聖職者、憲兵らが追放され、ギリシャ語の使用は禁止、地名はブルガリア語に書き換えられた。さらに、ブルガリア政府はギリシャ人の強制労働、経済制裁を行ってギリシャ人を追放して土地家屋を奪い、ブルガリア人の移民を奨励、同地域のブルガリア化を行い、民族の入れ替えを図った。 1941年9月後半、ギリシャのドラマ(Drama)周辺で発生したギリシャ人の抵抗運動はブルガリア軍によって徹底的に鎮圧された。 そのため、1941年後半までに、100,000名以上のギリシャ人がブルガリア占領区域から追放された。 1943年5月、ブルガリア占領区域からのユダヤ人追放が始まった。1943年、ギリシャからイタリア軍が撤退した後、ドイツの管理の元、マケドニア中部にブルガリア軍が駐屯した。 しかし、1944年10月、ソビエト赤軍がブルガリア方面へ進撃し、また、ドイツ軍がギリシャより撤退、イギリス首相ウィンストン・チャーチルとソビエト連邦書記長ヨシフ・スターリンとの間で取り交わされた『(勢力範囲における)パーセンテージ協定』により、ブルガリア軍はマケドニア、トラキアから撤退することを強制された。そして、戦後のブルガリア占領地区の回復の困難を残してギリシャは再出発することとなった。
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