ギリシャにおけるホロコースト
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/30 15:13 UTC 版)
「第二次世界大戦時のギリシャ」の記事における「ギリシャにおけるホロコースト」の解説
第二次世界大戦以前、ギリシャのユダヤ人には大きく分けて、2グループが存在しており、1つ目が古代ギリシャより存在していたロマニオット、そして中世にスペインの宗教裁判から逃れて、テッサロニキに在住したセファルディムでこちらは50,000人以上、存在した。特に後者は5世紀の間、都市において経済において顕著な活動を見せており、第一次バルカン戦争の間に各都市がギリシャの州に統合されたが、彼らはそれに統合されることはなかった。 ギリシャ降伏後、テッサロニキはドイツの管理下となり、トラキアはブルガリアの管理下となった。当初の保証にも関わらず、ドイツ、ブルガリアは徐々に反ユダヤ活動を行うよう圧力をかけ始めた。ユダヤ系新聞社は事業停止を命令され、各地方に反ユダヤ主義の宣伝を行うよう奨励された。またドイツ、ブルガリア占領域のユダヤ人はギリシャ人と区別できるよう、ダビデの星の着用を強制された。ナチス統制下のマスコミがユダヤ人への敵意を煽り、ユダヤ一家は家を追い出され、検挙された。1942年、ドイツ軍はテッサロニキの古いユダヤ人墓地を破壊、その墓石は歩道、壁などの建築資材として使われた。現在、その古い墓地はテッサロニキのアリストテレス大学(Aristotle University of Thessaloniki)のキャンパス内に静かに佇んでいる。 その後、告示されたユダヤ人追放の予告にも関わらず、大部分のユダヤ人は家を離れることを嫌がっていたが、数百のユダヤ人は町から逃げ出すことに成功した。1943年3月、ドイツ、ブルガリア両国は大規模なユダヤ人追放を開始、テッサロニキとトラキアのユダヤ人をアウシュビッツやトレブリンカの強制収容所へ鰯を積むような有蓋貨車に詰め込み、長旅を行わせた。夏までにはイタリア占領区域を除く、ドイツ、ブルガリア占領区域のユダヤ人は、ほとんど存在しなくなった。テッサロニキのユダヤ人資産は特別委員会(YDIP、Service for the Disposal of Jewish Property、ユダヤ資産処分委員会)が設立され、特別委員会によって指定されたギリシャの「管理人」に分配された。さらに、委員会は、大勢の難民に住処や仕事を与える代わりに、委員、またはその家族、親類、協力者にその利益を分配した。そして、全盛期に『マルカ・イスラエル(イスラエルの女王)』と呼ばれたテッサロニキのセファルディム・コミュニティは消滅、生き残ったものは少数であった。 1943年9月、イタリア降伏後、ナチス・ドイツはイタリア占領区域へ侵攻、その地域のユダヤ人も標的となることとなった。しかし、ロマニオットのユダヤ人はギリシャ社会によく溶け込んでおり、ドイツはキリスト教徒と区別することが容易でなく、また、キリスト教徒の間でもドイツへ反感が強かったため、反ユダヤの宣伝も効果が少なかった。ユダヤ共同体のリーダーたちがラリス首相に訴えたとき、ラリスはテッサロニキのユダヤ人が破壊活動を行ったために、追放されたと説明することにより、彼らの恐れていることを緩和しようとした。同時に、アテネの大ラビ、エリアス・バルジライ(Elias Barzilai)はユダヤ事務部に呼び出され、ユダヤ人コミュニティのメンバーの氏名、住所のリストを提出するよう命令された。しかし、バルジライ はリストを含む書類を破棄、このため、何千人ものアテネ在住のユダヤ人は命を救われることとなり、さらにバルジライはユダヤ人たちに逃亡するか、隠れるよう要請した。数日後、バルジライは民族解放戦線、民族人民解放軍らに救出され、ギリシャパルチザン活動に身を投じることとなる。このように民族解放戦線、民族人民解放軍らは何百人ものユダヤ人の逃亡を援助したが、その多くのユダヤ人たちはパルチザンに加わった。 戦前のユダヤ人の内、犠牲となったのはテッサロニキでは91%、アテネでは丁度50%、ヴォロス(Volos)のような少ない地域でも36%に及び、全体では約81%(約60,000人)が犠牲となった。また、ブルガリア占領区域では90%を越えるユダヤ人が犠牲となった。一方で、イオニア諸島のザキントス島ではユダヤ人はかくまわれ、275人全員が生き残った。
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