ギリシャとアルバニアのあいだ
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/17 20:56 UTC 版)
「イピロス」の記事における「ギリシャとアルバニアのあいだ」の解説
1878年のベルリン会議によってイピロスの大部分はギリシャ(ギリシャ王国)が獲得することとなった。しかしオスマン帝国と、アルバニア人の政治機関であるプリズレン連盟の反対を受け、1881年にイギリスの仲介によって一部(アルタ)のみがギリシャに割譲された。 1912年10月、ギリシャを含むバルカン同盟諸国がオスマン帝国に宣戦を布告し、バルカン戦争が勃発した。第一次バルカン戦争(1912年10月 – 1913年5月)ではギリシャ軍はイピロス全域を占領した。ロンドン条約(1913年5月)によって、ヨアニナなどのイピロス南部がギリシャ領として認められる一方、アルバニア公国の独立が承認された。引き続き行われた第二次バルカン戦争 (Second Balkan War) 後、ブカレスト条約(1913年)によって境界線が引きなおされたが、イピロスの北部はアルバニア領として残った。この条約の結果、少なからぬギリシャ人が暮らす地域がアルバニア側とされたため、地元のギリシャ人たちの間では不評であった。ギリシャ人たちは、アルバニア側のギリシャ人地域を「北イピロス(英語版)」と呼び、民族統一主義に基づき回復されるべき土地と考えた。「北イピロス」のギリシャ人たちは蜂起をおこなって独立を主張、1914年2月に北イピロス自治共和国(英語版)の建国を宣言した。激しいゲリラ戦の末、1914年5月に北イピロスとアルバニアの代表によるコルフ議定書(英語版)が取り交わさる。この議定書では北イピロスのギリシャ人がアルバニアの主権のもとで完全な自治権を持つことが列強によって承認された。 しかし、1914年7月に第一次世界大戦が勃発。成立間もないアルバニア公国は、国内に生じた反乱によって崩壊し、地方政府が乱立した。「北イピロス」には1914年10月にギリシャ軍が進駐した(1916年9月からはイタリア・フランスもイピロスの占領に加わった)。1915年3月に結ばれた戦後のアルバニアの措置に関する協定において、北アルバニアはイタリア領とし、アルバニア南部(北イピロス)はギリシャ人自治区とすることが決定された。一方で、ギリシャ王国も第一次世界大戦への対応を巡って国内が分裂した。 第一次世界大戦後のパリ講和会議(1919年)において、北イピロスはギリシャが獲得することとなった。しかし、希土戦争(1919年 - 1922年)でギリシャが敗北したことや、アルバニアに利害を持っていたイタリアの要求により、ギリシャは北イピロスを保持できなくなった。1924年にこの北イピロスはアルバニアに統合された。
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