ギリシャで見つけた日本
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/15 07:26 UTC 版)
「アポロの杯」の記事における「ギリシャで見つけた日本」の解説
三島は、ギリシャのアテネとパリを対比し、「私が巴里をきらひ、印象派を好まないのは、その温和な適度の日光に拠る」と記しており、ギリシャは三島にとって西洋文明の源流でありながらも、ブラジルの日光の苛烈さと重ねられるように、むしろ「非西洋的世界」として印象づけられ、ギリシャで見聞するものから、しばしば日本の文化や生活を連想している様子が散見される。例えば、ゼウスの宮居に残された柱の並び方が、2本と13本という不均衡な群れをなしていることから、「この二つの部分の対比が、非左右相称の美の限りを尽くしてをり、私ははからずも竜安寺の石庭の配置を思ひ出した」という印象を抱き、日本人の美意識について次のように語っている。 竜安寺の石庭の非均斉は、芸術家の意識の限りを尽したものである。それを意識と呼ぶよりは、執拗な直感とでも呼んだはうが正確であらう。日本の芸術家はかつて方法に頼らなかつた。かれらの考へた美は普遍的なものではなく一回的(einmalig)なものであり、その結果が動かしがたいものである点では西欧の美と変りがないが、その結果を生み出す努力は、方法的であるよりは行動的である。つまり執拗な直感の鍛錬と、そのたえざる試みとがすべてである。各々の行動だけがとらへることのできる美は、敷衍されえない。抽象化されえない。日本の美は、おそらくもつとも具体的な或るものである。かうした直感の探りあてた究極の美の姿が、廃墟の美に似てゐるのはふしぎなことだ。(中略)石庭の不均斉の美は、死そのものの不死を暗示してゐるやうに思はれる。 — 三島由紀夫「欧州紀行 アテネ」(『アポロの杯』) 三島は、「巴里で私は左右相称に疲れ果てた」とし、パリでは建築も政治も文学も音楽も、フランス人の愛する「節度と方法論的意識性」がいたるところで「左右相称」を誇示し、その「節度の過剰」が旅行者の心を重たくすると考察している。そして、そのフランス文化の「方法」の師であったギリシャを、「今、われわれの目の前に、この残酷な青空の下に、廃墟の姿を横たへてゐる」と表現し、そこでは、「建築家の方法と意識」は形を変えられ、旅行者はただ「廃墟としての美」をそこに見出すと断想しながら、ギリシャ人の考え出した「美」の方法は、「生を再編成」「自然を再組織」することだが、廃墟は、偶然にもギリシャ人の考えてような「不死の美」を、「希臘人自身のこの絆しめから解放した」と論考している。 そして三島は、「絆しめをのがれた生が、神々の不死の見えざる肉体を獲て、羽搏いてゐるさま」が、アクロポリスの青空に見えるとし、廃墟の大理石のあいだから、真紅の罌粟が花咲き、野性の麦が風になびいている様を記している。この三島の願望に染められた「ギリシャと日本の重なり」には、三島の古代ギリシャへの憧憬が、三島自身の生活圏である日本にその世界を引き寄せていた面も強いが、こうした連想や想像力が様々な三島の文学作品を生み出す創作の原動力となったと柴田勝二は指摘している。
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