イタリア占領区域
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/30 15:13 UTC 版)
「第二次世界大戦時のギリシャ」の記事における「イタリア占領区域」の解説
イタリアはギリシャ本土とエーゲ海の大部分の島を占領した。ギリシャの領土を併合する提案がローマでなされたが、結局実行されることはなかった。これはイタリア国王ヴィットーリオ・エマヌエーレ3世からの圧力によるものであり、また、ドイツがブルガリアによるギリシャ領土併合を強く否定していたことも関係している。 イタリアが長くその標的としてきたキクラデス諸島、イオニア諸島のギリシャ行政当局は、イタリアに併合されることを考え、行政権をイタリアへ譲渡した。アルバニア国境近くのエピルスにはアルバニアの少数民族、チャム=アルバニア人が在住しており、その地域をチャメリアとしてアルバニア統一主義者が権利を主張していた。第二次世界大戦以前、イタリアはチャメリアとコソボの民族主義を煽ることにより、アルバニア人の支持を得ようとしており、ギリシャに対するイタリアの中傷はチャメリア問題を大きく取り扱っていた。 そのため、イタリアはチャメリアをアルバニアに併合したいと考えていたが、ドイツはこれを拒否した。アルバニアの高等弁務官にヂェミル・ディーノ(Xhemil Dino)が任命されたが、その権限は制限されており、占領期間中、アテネの軍政当局から直接支配された。 ギリシャ内でイタリアが支援を行っていた少数民族のもう1つの例が、アルーマニア人であり、マケドニア西部、テッサリア北部、エピルスを含んだピンドス公国が、アルキヴィアド・ディアマンディ(en:Alchiviad Diamandi di Samarina)、ニコラ・マトゥーシ(en:Nicola Matushi)、 チェスネキー・ジュラらによって建国された。しかし、アルーマニア人の大部分が統一を拒否、また、公国はディアマンディの支持者である、いわゆるローマ帝国の再来を夢見るイタリアの属州以上になることはなかった。そして、1943年に入ると、ギリシャパルチザンの激しい抵抗が始まり、9月に公国の後ろ盾であるイタリアの降伏を受けたドイツ軍の占領により、公国は事実上消滅した。 しかし、イタリアの占領区域はドイツ、ブルガリアの占領区域と比べて穏やかなものであった。ドイツ軍とは異なり、一部を除くイタリア軍は大規模報復を行わず、また、ユダヤ人保護も行った。しかし、イタリアがギリシャの大部分を占領していたため、イタリアは1942年−1943年から始まったギリシャパルチザンの活動に直面したが、それに対処することができなかった。1943年中頃までには、パルチザンはイタリア軍が駐屯していた町を含む山岳地帯からイタリア軍を追い出すことに成功、そして自由な地区「自由なギリシャ(Free Greece)」を作り上げた。 1943年9月、イタリアが降伏するとドイツ軍が占領を開始した。その結果、ドイツ軍によるパルチザン掃討作戦と反ユダヤ主義政策が行われた。
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