イタリア南部からの移民
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/30 13:58 UTC 版)
「イタリア系アメリカ人」の記事における「イタリア南部からの移民」の解説
前述のとおり15世紀にアメリカ大陸に渡っていたイタリア人も大勢いたが、多くは1880年代からの移民である。イタリア統一が達成された後、その母体となったサルデーニャ・ピエモンテ王国の人材(ピエモンテ閥)を中心とした統治体制において、旧両シチリア王国に属したイタリア南部や島嶼部の住民は冷遇される日々を送っていた。ブリガンタッジョと呼ばれる南部での反乱や山賊行為に対する激しい鎮圧を経て、一層に困窮したナポリ地方やカラブリア半島、シチリア島の人々を中心に北米への大規模移民が始まった。南部移民の多くは既にイタリア系移民が多数定住していた東海岸北西部(ニューヨーク州とニュージャージー州)に定住し、特にニューヨーク市(マンハッタン・ブルックリン・クイーンズ・ブロンクス)は「イタリア系の街」として発展していった。勿論全員ではなく少数ながら西海岸に進んだ人々も記録されている。イタリア系アメリカ人、とくにアメリカに移民した者達は自己の文化を保ちながら仕事・生活に従事するため、同じイタリア人で移民者のコミュニティを作ってリトル・イタリーと呼ばれるイタリア人街が随所に出来上がった。 全てのイタリア南部からの移民者が定住を望んだわけではなく、少なくない人々は一時的な出稼ぎとして北米に出向き、一財産を築いて故郷に錦を飾る者も大勢いた。老年まで定住して移民先に子供や孫を儲けた場合でも、老人になってからの余生はやはりイタリア本国で過ごそうと帰国する傾向が南部移民1世には見られた。また初期の時点ではイタリア北部・中部からのブラジル・アルゼンチンなど南米への移民者も同程度存在し、イタリア国家全体にとって移民送出の時代といえた。 イタリアがドイツと同じく集権国家が建設されて間もない時期に移住した移民1世たちは同じ県(統一直後のイタリア王国は州制度を採用していなかった)や市町村(コムーネ)で更に分化されたネットワークを形成した他、親子兄弟はもちろん叔父叔母や従兄弟など親族を呼び集めて集団移住を図るケースも多かった。他の白人(特にドイツ系・イギリス系・フランス系など初期の移民者)に比べ仕事・収入が限られていたことなどもあり、大抵は貧民窟と化していた。近世から近代にかけてのイタリアの家庭観念は非常に保守的で家父長的であり、女性(妻・娘)が家の外で働くのは一家の恥と受け取られていた。その為に共働きで生計を立てる家庭は少なく、経済的な貧しさに拍車をかけていた。同様の家父長的姿勢から教育も父親が子供に自分の仕事を仕込んで家業を継がせるという習慣が残り、アメリカで一般化していった義務教育を「働き手が取られる」と拒否する家庭が相次いだ。 こうした点からイタリア系アメリカ人たちはそれまで民族自決に貢献してきた人々という好意的イメージから、貧しく無学な移民集団という固定観念で見られるようになった。イタリア系と同じく後発移民でありながらグレートブリテン連合王国出身で英語の技能に長けており、軍人・警官・消防士などの下級公務員で栄達を目指したアイルランド系とも格差が付いてしまっていた。それでも移民1世の中に肉体労働から脱して理髪店や料理店、小売店など小規模な自営業を営んで身を立てる者達も現れたが、今度は移民斡旋や商業の仲介で暗躍していたイタリア系マフィアがみかじめ料の徴収などで力を伸ばした事で、「マフィアの集団」という別の悪感情で見られてしまう事態に陥った。 1891年3月14日にはイタリア系アメリカ人がニューオーリンズの警察署長であるデヴィッド・ヘネシー殺害に関与したマフィアという嫌疑をかけられ、11人がリンチを受けて殺害された(1891年3月14日のリンチ事件)。 映画「ゴッド・ファーザー」には、イタリア系アメリカ人が背負ってきた負のイメージが描かれている。
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