イタリア勤務
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「テオドール・ゼーフェッケ」の記事における「イタリア勤務」の解説
1943年7月1日、ゼーフェッケは保安警察及びSD司令官(BdS)として北イタリアのヴェローナに派遣された。9月13日、ミラノBdS外部部隊(BdS-Außenkommandos Mailand)の指揮を引き継ぐとともにゲシュタポの現地支部長に就任。この時期、彼はイタリアにおけるレジスタンス運動の監視および鎮圧を担当していたほか、少なくとも700人の在イタリアユダヤ人を強制収容所送りにした。 1944年8月8日、イタリア・パルチザンによるドイツ軍トラックへの爆弾テロが発生する。この攻撃は巻き添えとなったイタリア市民15名を死傷(10名死亡、5名負傷)させているが、トラックを運転していたドイツ兵は頬に軽傷を負ったのみだった。8月10日、ゼーフェッケは爆弾テロに対する「報復」としてイタリア人捕虜15名をロレート広場にて公開銃殺刑に処した(ロレート広場の虐殺(イタリア語版))。以後、彼は「ミラノの死刑執行人」(Henker von Mailand)の異名で恐れられていくことになる。処刑する捕虜はゼーフェッケ自身が選び、銃殺を命ずる命令書も彼が署名したものだった。 8月中にはコルベッタでSS隊員1名がレジスタンス闘士に殺害された事件の報復として、ゼーフェッケ自らが率いるSS隊員10名から成る部隊がコルベッタに向かい、村民3名の銃殺を行った。その数日後、ゼーフェッケは上官ヴァルター・ラウフと共に、20名のSS隊員と100名のイタリア人補助部隊員を率いて再びコルベッタに現れた。村は彼らによって完全に包囲され、村民のうち男は全員が一箇所に集められた。そしてその中からゼーフェッケによって無作為に選ばれた5名が銃殺され、彼らの住居には火が放たれた。上官カール・ヴォルフは1944年3月付けの報告の中でゼーフェッケについて、「彼はロンバルディア州におけるパルチザン掃討戦で優秀な成績を収め、また多くの対パルチザン作戦の最前線に従軍している。彼の働きによってロンバルディア州におけるパルチザン活動は最小限に抑えられている」と述べている。 1945年4月、ゼーフェッケはトリエステに駐屯するSS部隊の処罰を担当した。この部隊は物資の横流しなど「ユダヤ的行い」に手を染めていたという。その後まもなくして連合軍の捕虜となった。
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