ロレート広場
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ロレート広場(Piazzale Loreto)は、ミラノにある広場で、街の道路網において重要な地点となっている。特筆すべきは、2つの悲惨な第二次世界大戦での事件、1944年の一パルチザンと反ファシスト15人のロレート広場での大虐殺と、1945年のベニート・ムッソリーニとクラーラ・ペタッチおよび他の社会共和国の代表者達の遺体の見せしめがあった事である。広場にはミラノ地下鉄の同名の駅がある。
現在の広場付近には、ボッロメーオ家が優勢だった時代にはロレートのマドンナに捧げられた聖域が有り、グレーコとその他付近の住民がしょっちゅう来ていた。その後ここは、聖域が破壊され、そのうちに「ロンド・ディ・ロレート」(Rondò di Loreto)という名前となり、交通の要所としてミラノ市に組み込まれた。そして「ロレート広場」(Piazzale Loreto)と改称され今に至る。2005年5月、ミラノ市文化評議員のステーファノ・ゼッキはこの広場を「コンコルディア広場」と改名する提案を出した。
関連項目
- ロレート広場の虐殺
- クラーラ・ペタッチ
ロレート広場
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/08/24 09:09 UTC 版)
「ベニート・ムッソリーニの死」の記事における「ロレート広場」の解説
1945年4月28日の夜、ムッソリーニとペタッチの遺体は、処刑された他のファシスト党幹部の遺体とともにバンに積み込まれ、ミラノに向かって南へと運ばれた。4月29日の未明、バンはミラノに到着し、ムッソリーニらの遺体はミラノ中央駅に近いロレート広場の地面に投げ捨てられた。ロレート広場では1944年8月、パルチザンの襲撃および連合軍の空爆への報復として15人のパルチザンが銃殺された後、その遺体が見せしめに放置されたという経緯があり、パルチザンがこの広場を選んだのはその意趣返しだった。ムッソリーニは15人のパルチザンが処刑された当時、「ロレート広場で流れた血のために、我々は高いつけを払うことになるだろう」と語っていたと伝えられている。 ムッソリーニらの遺体は積み重なった状態で放置された。4月29日午前9時を回る頃には、おびただしい数の群衆が広場に詰め掛けていた。群衆は遺体に野菜をぶつけ、唾を吐きかけ、尿をかけ、銃撃し、足蹴にした。ムッソリーニの顔面は殴打され、変形した。あるアメリカ人の目撃者は、これらの群衆を評して「邪悪で下劣、無秩序」であると述べた。 その後しばらくして、ムッソリーニらの遺体はスタンダード・オイルのガソリンスタンド(建設途中)の骨組みの桁まで持ち上げられ、食肉用のフックに引っ掛けられて、逆さ吊りにされた。逆さ吊りというのは、吊るされた人物の「汚名」を強調するために北イタリアでは中世から行われてきた方法であった。ただし実際にムッソリーニらを逆さ吊りにした人々によると、これは単に遺体を群衆から保護するための処置であったという。ロレート広場での一連の出来事を記録した映像は、彼らの主張を裏付けているように見える。
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