イタリア初期ルネサンス美術とは? わかりやすく解説

Weblio 辞書 > 辞書・百科事典 > ウィキペディア小見出し辞書 > イタリア初期ルネサンス美術の意味・解説 

イタリア初期ルネサンス美術

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/26 18:17 UTC 版)

西洋美術史」の記事における「イタリア初期ルネサンス美術」の解説

詳細は「ルネサンス美術」を参照 ルネサンス「再生」意味するイタリア語 rinascita から派生した呼称であり、古典古代文化復興という思想のもと、ギリシア美術ローマ美術復活と自然の美や現実世界価値再発見され、人間の尊厳再認識された時代を指す言葉となったイタリア建築家人文主義者であったレオン・バッティスタ・アルベルティは「意思さえあれば人間何事も為し得る」という、人間可能性絶大な信頼をよせた言葉を残しており、ルネサンス美術根底流れ人間中心主義という世界観見事に表現している。こうした思想15世紀前半市民階級いち早く台頭した都市フィレンツェ芽生えた建築分野ではサンタ・マリア・デル・フィオーレ大聖堂円蓋設計を手がけたフィリッポ・ブルネレスキの名が挙げられるブルネレスキ設計した聖堂は、ゴシック様式建築からの明確な離脱示しバシリカ聖堂エッセンス取り入れつつも調和秩序重要視した人間中心世界観体現しており、15世紀フィレンツェ確立されルネサンス建築代表的な作例となったこうした理念アルベルティ継承され、その理念元に執筆された三大著作(『絵画論』『彫像論』『建築論』)は同時代を含む後世芸術家たちに絶大な影響与えることとなったまた、古代ローマ建築実測を行うことで、科学的遠近法発見したことでも後世大きな影響残している。 ブルネレスキ死後アルベルティ台頭することとなる。フィレンツェから追放され商人息子であったアルベルティローマ教皇庁諸侯顧問として西欧各地歴訪しており、こうしたルネサンス様式ヨーロッパ全土伝播する間接的な貢献をしていたとも言える15世紀半ば入り共和制理想鳴り潜め豪商が町政治取り仕切るうになると、大富豪市内邸宅パラッツォ)の建築相次ぐようになったミケロッツォ・ミケロッツィ建設したメディチ家市内邸宅(パラッツォ・メディチ・リッカルディ)は秩序安定志向するルネサンス建築思想表現されパラッツォ代表的な作例である。 彫刻分野古代思想復活という理念色濃く示され分野であり、ブルネレスキの『アブラハム犠牲』など、優雅なゴシック彫刻伝統打破する力強い人体把握細微写実性有した作品数多く登場したこの分野において、国際ゴシック様式からの脱却試みた最初彫刻家はオルサンミケーレ聖堂英語版)の『4人の聖者』などで知られるナンニ・ディ・バンコ(英語版)であると言われている。古代ローマ以降初めコントラポスト採用し、オルサンミケーレ聖堂の『聖ゲオルギウス』を発表して頭角現しドナテッロは、『預言者ハバクク』『ダヴィデ』など古代ローマ作風復活心血注ぎルネサンス彫刻方向性決定付けた。特に『ダヴィデ』は二本足で立つ孤立像というジャンル裸体表現取り入れたという点において特筆すべき作品となっている。ドナテッロ確立したルネサンス彫刻様式その後ヴェロッキオミケランジェロ受け継がれていくこととなる。その他、サンタ・マリア・デル・フィオーレ大聖堂の『カントリア』を制作したルカ・デッラ・ロッビア後期ゴシック様式学びながらも『天国の扉』に見られる透視図法確立したロレンツォ・ギベルティ墓碑彫刻写実的な胸像新境地開拓したロッセリーノ兄弟ベルナルド・ロッセリーノ、アントーニオ・ロッセリーノ(英語版))などが代表的な彫刻家として知られている。 建築彫刻分野比較して絵画分野における革新性確立若干遅く1420年代前半ごろであり、これは古典古代における手本とすべき遺品がこの当時ほとんど知られていなかったことが影響していると考えられている。1421年フィレンツェへ移住してきた国際ゴシック様式画家ジェンティーレ・ダ・ファブリアーノ制作したマギの礼拝』に僅かながらその片鱗を見ることができるものの、空間対す配慮乏しく目新しさはあまり無い状態であった。しかし、マサッチオ登場により、情勢一変したジョット・ディ・ボンドーネがかつて確立したかばかり空間表現に、光の明暗によって量感表現する手法融合され、より奥深い空間手に入れることに成功したのである。 さらに、ブルネレスキアルベルティによって合理的な透視図法理論構築されると、多く画家がその刺激受けて次々と実験的な作品誕生した彩色や光の扱い方拙いながらも透視図法研究没頭し、『ジョン・ホークウッド騎馬像』や『サン・ロマーノの戦い』などの作品発表した国際ゴシック様式画家パオロ・ウッチェロはその最たる例である。その後修道僧画家フィリッポ・リッピフラ・アンジェリコらによってマサッチオ様式取り入れられるリッピ日常的室内聖母子配置したネーデルラント風の絵画制作した他、人間中心主義根底世俗的かつ官能的な聖母肉感的なイエスなどを描き出している。『受胎告知』などの作品知られるフラ・アンジェリコ1430年代以降においてマサッチオ空間表現明暗描写積極的に取り入れた宗教画多数制作した正確な一点透視図法採用し聖会話形式(サクラ・コンヴェルティオーネ)の表題確立したドメニコ・ヴェネツィアーノマサッチオ影響を受けた画家一人である。 15世紀後半に入るとフィレンツェ熟成されたルネサンスイタリアの各都市波及していくこととなった。そして、フェデリーコ・ダ・モンテフェルトロイザベラ・デステといった人文主義的な君主治世によって、各都市豊かな文化活動育まれた。南トスカーナアレッツォ、およびトスカーナ公国精力的に作品制作没頭した数学者画家ピエロ・デラ・フランチェスカは、15世紀中期における最大巨匠として知られ、『聖十字架伝説』に代表されるフレスコ壁画分野では、一切の無駄を排除し幾何学的とも言える明晰秩序立った画面構築している。 一方絵画・彫刻双方主題に「動勢」が取り入れられるようになり、アントニオ・デル・ポッライオーロによる力を孕んだ写実的な筋肉描写や、ヴェロッキオの『キリストの洗礼』に代表される解剖学的知識導入した生々しい人体表現持った作品登場するようになったのも15世紀後半の出来事であったまた、富の蓄積とこれに伴う趣味の贅沢化によって優美装飾的な様式持った作品流行来しサンドロ・ボッティチェッリの『ヴィーナスの誕生』に代表される美的世界観表現した作品生まれている。その他、アンドレア・マンテーニャジョヴァンニ・ベリーニフィレンツェ以外に活動拠点置いた同時代の画家として知られルネサンス波及象徴している。 15世紀末期には教皇分立時代以降沈滞していたローマにおいても、ボッティチェッリギルランダイオペルジーノらによってシスティーナ礼拝堂壁面装飾事業が行われるなど、ローマ法王主導の下、旺盛な芸術活動展開された。1492年ロレンツォ・デ・メディチ没しフィレンツェ禁欲的なジロラモ・サヴォナローラ支配下置かれたことによってローマ芸術活動はさらに盛り上がり見せ16世紀にはイタリア美術中心地へと発展していくこととなる。

※この「イタリア初期ルネサンス美術」の解説は、「西洋美術史」の解説の一部です。
「イタリア初期ルネサンス美術」を含む「西洋美術史」の記事については、「西洋美術史」の概要を参照ください。

ウィキペディア小見出し辞書の「イタリア初期ルネサンス美術」の項目はプログラムで機械的に意味や本文を生成しているため、不適切な項目が含まれていることもあります。ご了承くださいませ。 お問い合わせ



英和和英テキスト翻訳>> Weblio翻訳
英語⇒日本語日本語⇒英語
  

辞書ショートカット

すべての辞書の索引

「イタリア初期ルネサンス美術」の関連用語

イタリア初期ルネサンス美術のお隣キーワード
検索ランキング

   

英語⇒日本語
日本語⇒英語
   



イタリア初期ルネサンス美術のページの著作権
Weblio 辞書 情報提供元は 参加元一覧 にて確認できます。

   
ウィキペディアウィキペディア
Text is available under GNU Free Documentation License (GFDL).
Weblio辞書に掲載されている「ウィキペディア小見出し辞書」の記事は、Wikipediaの西洋美術史 (改訂履歴)の記事を複製、再配布したものにあたり、GNU Free Documentation Licenseというライセンスの下で提供されています。

©2025 GRAS Group, Inc.RSS