イタリア参戦後とは? わかりやすく解説

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イタリア参戦後

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/30 07:17 UTC 版)

ネプチューン (軽巡洋艦)」の記事における「イタリア参戦後」の解説

1940年昭和15年6月10日イタリアは、イギリスフランス宣戦布告したイギリス海軍は、アレキサンドリア拠点とする地中海艦隊司令長官アンドルー・ブラウン・カンニガム中将)に加えてジブラルタル拠点とするH部隊司令官ジェームズ・サマヴィル中将)を新編して対抗した6月21日軽巡洋艦オライオン (HMS Orion, 85) 、豪州海軍軽巡洋艦シドニー (HMAS Sydney) などと共同で、リビアバルディア英語版)を砲撃した同月MA3作戦出撃中にイタリア駆逐艦3隻と交戦し僚艦と共に、伊駆逐艦エスぺロ (Espero) を撃沈したエスペロ船団の戦い)。 7月9日ネプチューンカラブリア沖海戦参加した戦艦ウォースパイト (HMS Warspite) を旗艦とする地中海艦隊三つ部隊わかれており、ネプチューンジョン・トーヴィー中将率い快速巡洋艦部隊A部隊)に所属していた。14時47分、軽巡オライオンイタリア艦隊煤煙発見しその5分後にネプチューン敵艦2隻を視認して旗艦カニンガム提督)に「敵艦見ゆ」の無電おくった地中海でイギリス軍艦がこのような信号発したのは、1798年7月ナイルの海戦以来だったという。この海戦で、ネプチューンイタリア軽巡洋艦ジュゼッペ・ガリバルディ (Giuseppe Garibaldi) から命中弾を受けた一方ネプチューンイタリア重巡洋艦ボルツァーノ (Bolzano) に損害与えた巡洋艦部隊同士戦闘イタリア有利だったが、ウォースパイト砲撃開始してイタリア戦艦損傷させ、イタリア艦隊撤退した8月からはインド洋配置転換し、同方面船団護衛任務通商破壊艦の捜索従事した

※この「イタリア参戦後」の解説は、「ネプチューン (軽巡洋艦)」の解説の一部です。
「イタリア参戦後」を含む「ネプチューン (軽巡洋艦)」の記事については、「ネプチューン (軽巡洋艦)」の概要を参照ください。

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