バルディア
バルディア
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/02/11 00:32 UTC 版)
「レイフォース (イギリス軍)」の記事における「バルディア」の解説
詳細は「トブルク包囲戦」を参照 1941年4月初頭に、レイコック(英語版)は北アフリカ海岸部に沿ったアフリカ軍団の後方連絡線に対する襲撃を開始するよう命じられた。4月12日に彼らはアレクサンドリアへの予備的な移動を行い、3日後にはバルディア(英語版)への襲撃と、またボンバ(英語版)への別の襲撃を行うよう命令を受けた。A・C大隊はバルディア攻撃のために派遣され、B大隊下の4個分遣隊は駆逐艦に搭乗してボンバへ向かった。しかしながら、高波が上陸と再乗船をあまりに危険なものとしかねず、両攻撃は断念を余儀なくされた。 数日後、バルディアへの攻撃の遂行が決定された。この度の襲撃担当はA大隊(第7コマンド部隊)から選出され、HMSグレンガイル(英語版)に搭乗した。3隻のオーストラリア海軍駆逐艦(HMASスチュアート、ヴォイジャー、ウォーターヘン)と対空巡洋艦のHMSコヴェントリー(英語版)を含む、数隻の海軍支援部隊が随行した。部隊が航空攻撃を受ける懸念から、襲撃は暗闇の中で行われることが決められた。そしてその結果、潜水艦のHMSアブディール(英語版)と、またロジャー・コートニー(英語版)が指揮するフォルボット部隊(その後に特殊舟艇部隊(SBS)として知られる)の分遣隊の形で追加の戦力が、停泊地と上陸先の浜の双方を示して誘導支援を行う任務を受けた。 襲撃は1941年4月19日から20日にかけての夜半に敢行されたものの、事は出だしから躓いた。やや先立って潜水艦が連合軍航空機からの攻撃を受け、上陸船との合流に失敗した。上陸艇の切り離し装置に問題があってコマンド班の一部は上陸が遅れることとなり、また別の班は間違った浜に上陸した。 上陸は反撃を受けないままに進められ、コマンド部隊は情報部門が割り出していた様々な目標へと移動した。多数の目標が存在していないことが判明し、あるいは考えられていた場所には存在せず、与えた損害は僅かであった。ある班は橋を損傷させることに成功し、別の班はタイヤ置き場に放火して、いくつかの沿岸砲の砲尾を破壊した。上陸時の手間取りと暗い間に出立する必要から時間切れとなり、コマンド部隊は撤退を強いられた。帰投中に一人の士官が、歩哨からの誰何に適切に応答できず銃撃を受けた。一方で67名が、先立つ誤りから自分たちの浜に襲撃艇が存在しないことを知らないままに、置き去りとなって後に捕虜とされた。 眼に見える成功を欠いたものの、襲撃は完全な失敗ではなかった。コマンド部隊の出現でドイツ軍は、さらなる襲撃からの防衛用にサルム(英語版)から1個装甲旅団の主力部分を差し回さざるを得なくなった。作戦術のいくつかの要素にはなお洗練の必要があったものの、この襲撃は戦略上の強制や資源の制約が構想からの逸脱へと働いていなければ、コマンド部隊が戦線において備えたであろう戦略的価値を示してみせた。
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