ギリシャに住まう人々
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/06/20 19:20 UTC 版)
「トルコクラティア」の記事における「ギリシャに住まう人々」の解説
「ファナリオティス」、「クレフテス」、「デヴシルメ」、および「イェニチェリ」も参照 16世紀のギリシャの人々 オスマン帝国では法制上は支配者層であるアスケリ (en) 、非支配者層であるレアヤー (en) に分けられていた。アスケリは主に支配者層及び、その家族や従者、そして軍人、書記(キャーティプ)、イスラーム法学者(ウレマー)などが含まれ、それ以外の人々がレアヤーであった。ギリシャの人々は主にレアヤーに属していたが、少数の人々がアスケリに属し、その中間層に属する人々もいた。 ギリシャではムスリムが少数派であったが、その中でもアスケリは極少数であり、ティマールを授与された在地騎兵、その家族や従者、地方行政官とその郎党(カプ・ハルク)、ウレマー層であるイスラーム法官、イスラーム学校の教授、モスクの導師(イマーム)らが属していた。 それに対してギリシャ語を母語とする人々の中でもアスケリに属する人々がおり、正教会に属する聖職者の上層部、ファナリオティスらが主にアスケリに属した。ただし、彼らの活動拠点はあくまでもイスタンブールにあるため、純然たるギリシャ本土に住まうギリシャ系の人々のほとんどがレアヤーに属していた。ただし、聖職者と補助軍事力を担っていた人々は準アスケリとして扱われ免税特権が与えられてレアヤーとは区別されていた。 レアヤーを構成する人々は主に、農民らとベラーヤーと呼ばれる都市に住まう人々であった。農民らは生産力の中心であり、オスマン帝国初期にはティマール制 (en) の元、支配された。土地は基本的に国に属しており、土地を所有するものはいないことになっていた。そして、ギリシャ系農民らは武器の携帯を禁止されていたため、兵役に召集されることはなかった。農民らは永小作権(タプ)を与えられ、その地代を租税として収めていた。そして、ティマール制度の頃のギリシャ系農民らは重税を課せられていたとは言えども、西欧の農民らよりかは良い暮らし向きであった。しかし、16世紀以降、ティマール制が徐々に崩壊し始め、イルティザーム (en) と呼ばれる徴税請負制へ変化していった。 この徴税請負制度は初期こそ単発で短期的なものが多かったが、17世紀を経て18世紀に至ると契約期間が長期化、さらには世襲制度化したため、広い地域を担当したものが事実上の支配権を獲得、大地主化していった。これら地主化した人々をコジャ・パシャと呼び、支配の及ぶ地域を基礎にチフトリキと呼ばれる農場経営を行い、18世紀には財力を蓄え、私的軍事力を担う従者団「カピ」を要するに至った。 さらに「子供たちの貢納」としてデヴシルメ制度があった。これは5人の子供の内、10歳から15歳までの男児をイェニチェリ(新兵力とも)に編入するために召集されるものであったが、これはオスマン帝国の兵力として大きな力を持ったものであった。また、イェニチェリは農民の子として生まれた子弟がオスマン帝国において出世するための一つの道であり、これらは過酷な税と言えども歓迎され、大きな恨みを買うことはなかった。 また、補助的な軍事を担っていた人々はアルマトロス(アルマトリとも)と呼ばれ、帝国辺境の城砦の守備や帝国内の交通安全確保を担うデルベント制度(関所制度)を担当した。彼らはルメリ地方(バルカン地域)からハンガリーで主に活動しており、ギリシャでは主に本土部で活動した。後にギリシャ独立戦争において彼らはアルマトリとして地域の軍事力として活動したが、彼らはオスマン帝国の辺境防衛及び地域の交通、治安確保の枠組みの中でデルペント制度の一部としてギリシャで活動した。 一方、これらオスマン帝国の支配に対して不満を持つ農民や遊牧民らは山に篭り非合法活動を行った。これはオスマン帝国の支配下であるアナトリアやバルカン半島各地で見られ、主にハイドゥク、エシュキヤーと呼ばれていたが、その中でもギリシャで活動した人々はクレフテスと呼ばれた。 クレフテスらは後に行われたギリシャ独立戦争においての活躍を主に見られることが多いが、彼らはしばしばオスマン政府に懐柔されて帰順することもあり、前述したアルマトリとクレフテスの違いは合法か非合法かの違いでしかなかった。
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