ギリシャにおける状況
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/03/30 02:58 UTC 版)
「アルーマニア語」の記事における「ギリシャにおける状況」の解説
アルーマニア語話者がいる地域がギリシャの州に編入される前でさえ、彼らは国語としてギリシャ語を話すよう従属させられた。もともとこの地域はギリシャ語を公用語とした東ローマ帝国(7世紀まではラテン語)の領域であったからだ。アルーマニア語は、伝統的に教育と宗教のための言葉として残った。 ルーマニアは、1860年代からアルーマニア人のために学校を開いた。しかしこの方針は、多くのアルーマニア人から、ルーマニア人が同化政策を取ろうとしているのではないかと疑われた。また、これをルーマニアのプロパガンダと受け取ったアルーマニア人から拒絶された。一方で、ルーマニアのこれらの学校では、非ギリシャ的アイデンティティの確立を推進しており、それを受け入れたアルーマニア人もいた。このようにして、20世紀前半までアルーマニア人コミュニティの心情はかき乱された。 1948年、ソビエトにより課されたルーマニアの共産主義政権は、ルーマニアの外にあるすべてのルーマニア人の学校を閉鎖した。これにより、アルーマニア人にとっての組織的な教育機関はなくなった。アルーマニア語話者は、ギリシャ語を学習し話すように奨励された。 アルーマニア語教育がいまだに敏感な問題である理由の一つは、このように、過去ルーマニアの学校の存在が引き起こした、激しい対立の痛切な記憶のためである。多くのアルーマニア人が、ギリシャ人との公式な差別であるとみなして、公的教育機関へのアルーマニア語教育の導入に反対する。元教育大臣のゲオルギオス・アンドレアス・パパンドレウは、アルーマニア人のリーダー達や組織から、アルーマニア語教育プログラムの導入について否認を受け取った。1998年にギリシャの大統領コンスタンディノス・ステファノプロスが、メツォヴォとイピロスを訪問した時も、アルーマニア人に彼らの言語を話し教えるように要求したが、その早い衰退を押し止めるための実際的な行動はほとんど行われていない。 近年の敏感な問題として、ソティリス・ブレツァス(Sotiris Bletsas)が2001年に懲役15ヶ月の有罪判決を受けた事件がある(後に控訴で逆転判決が出た)。彼はギリシャ在住のアルーマニア人で、少数言語についての参考資料(これはギリシャの少数言語についても言及していた)を配布した後で「誤った情報を広めた」との罪状により有罪の判決を受けた。これは欧州委員会の資金で、「ヨーロッパの少数使用言語についての委員会(European Bureau for Lesser Used Languages)」のために作られた資料だった。彼の有罪判決は、ギリシャの左派・革新派政党により非難された。また、愛国的なギリシャ人であると自任し、マイノリティ扱いを侮辱と感じるアルーマニア人リーダー達が、ブレツァスの訴追を熱心に求めた(訳注:事実関係が逆かもしれません。en: it emerged that his case was zealously pursued by Aromanian leaders who viewed themselves as patriotic Greeks and felt affronted by the suggestion that they belonged to a "minority".)ことが明らかになった。ブレツァスはその後無罪となった。
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