ブルガリア共産主義政権の崩壊
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2018/03/09 05:00 UTC 版)
「ゲオルギー・ロザノフ」の記事における「ブルガリア共産主義政権の崩壊」の解説
しかしながら、ブルガリア共産党とロザノフとの間は、終始敵対的関係にあった。 ナチス・ドイツが崩壊した1944年、ブルガリアではソ連が侵攻し、9月9日に赤軍が首都ソフィアを掌握してブルガリア共産主義政権の基礎を作った。その年18歳になったロザノフは、共産化したブルガリアで共産主義に反対する友人たちの計画を当局に知らせず庇ったとして逮捕、投獄され、独房生活を送り、拷問を受けている。 投獄は恩赦によって解かれたが、その後もロザノフの行動は反共産主義者として常に監視下に置かれ、地方で職を得たところを追跡され自宅に踏み込まれるなどした。そのため、ロザノフは、偽名を使い住所を転々としながらの生活を強いられた。この政権は、ロザノフの大学進学後にも大学に対してロザノフを退学させるよう圧力をかけ、また、ソフィア市にあった精神科診療所の職からは実際にロザノフを追放した。職を失ったロザノフは、その後しばらく自動車修理工として一家の生計を立てることを余儀なくされたという。 1970年代にサジェストペディア関連の実験が成功して西側世界から注目を浴びると、ブルガリア共産主義政権は、国家宣伝に利用するためにロザノフの海外での活動、とりわけ1977年の米国での講演、博士論文をもとにした著書 "Suggestology and Outlines of Suggestopedy (1978)" の英訳出版に対する許可など、ロザノフに対して特権的とも言える便宜を与えた。しかし、一貫して共産主義思想に与しなかったロザノフを疎ましく思う勢力は、サジェストペディア研究所の中にさえ常に存在し、また、サジェストペディアの本質が、個人の内的自由の拡大を指向したり、社会的な枠組みによる精神的束縛からの解放を助長するなど、独裁的共産主義の思想とは相容れないものであったことなどから、政権内の権力バランスの変化をきっかけに、この政権は結局ロザノフを軟禁、研究職以外のすべての公職から追放した。またその後しばらくは反ロザノフ勢力によって運営されていた国立サジェストペディア研究所もまもなく閉鎖され、そこでの実験資料なども破棄された。同時にブルガリア政府は、ユネスコによるサジェストペディア普及の動きを政府として容認しない方針を示したため、1978年に出されたユネスコ作業部会の提言は実行される機会を失った。 1980年1月に軟禁状態に置かれたロザノフは、1989年まであしかけ10年にわたり、教育と出版にかかわるあらゆる活動を禁止された。ロザノフに同情的であった国立ソフィア大学は、閉鎖された国立機関に代わるものとして、1991年にロザノフが定年退官を迎えるまでの間、学内に「サジェストロジーおよび人間性開発センター」の設立を認め、その所長の職を用意した。しかし、そこでの研究成果を国内外に発表することは許可されなかった。また、ロザノフを救済しようとしたオーストリア政府は、軟禁中のロザノフに市民権を与え、ブルガリア政府に対して出国を要請したが実現しなかった。ただ、このためロザノフはブルガリアとオーストリアの二重国籍を有していた。 軟禁当時、ロザノフの開発したサジェストペディアの名前はすでに西側諸国にセンセーションをもって伝えられていたが、この突然の国内軟禁により、ロザノフとサジェストペディアに関するブルガリア国内からの情報は全く絶たれることになった。この結果、サジェストペディアは、世界各地で10年間にわたって放置され、その間、多くはロザノフの意図していなかった方向へと発展・変容した。さらに、この間ブルガリア政府は、米国企業の求めに応じて、「サジェストペディア」「ロザノフ」等、この教授法に関わるキーワードを売却している。これら名称は米国内で商標登録され、商業目的で使用されたが、軟禁中のロザノフは、自身の研究成果やそれを表す名称が国外で商業的な意図の下にひとり歩きしていくことに対して全く無力であった。 また、国外同様ブルガリア国内においてもサジェストペディア関連の情報は封殺され、それとともに、このメソッドがブルガリア国民の話題に上ることもなくなった。
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