君主に擁立
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/03 08:56 UTC 版)
350年、張重華の末子として生まれた。父の死後はその子で張玄靚の兄であった張耀霊が君主の地位を継いだが、間もなく伯父の張祚がその地位を簒奪した。354年1月に張祚が涼王を称すると、張玄靚は涼武侯に封じられた。355年7月、宗族である河州刺史張瓘・驃騎将軍宋混らが張祚の誅殺と張耀霊の復位を掲げて挙兵すると、張祚は張耀霊を殺害してしまった。 張祚の側近であった趙長・張璹らは宋混の側に寝返えると、皇太后の馬氏の名を用いて張祚を廃し、張玄靚を新たな君主に立てると宣言した。 その後張祚は入殿してきた宋混らの軍に殺害され、趙長・張璹らもまた殺害されたため、張玄靚は宋混・張琚らによって正式に君主に立てられ、持節・大都督・大将軍・護羌校尉・涼州牧・西平侯とされた。また、張祚の代より始まった和平の元号を廃し、それまで用いられていた西晋の最後の元号である建興を再び用いて建興43年と号し、領内に大赦を下した。さらに張祚を庶人の礼で葬り、その子2人を処刑した。
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