福岡合戦とは? わかりやすく解説

福岡合戦

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/10/09 01:19 UTC 版)

宇野政秀」の記事における「福岡合戦」の解説

文明15年1483年)、山名政豊(宗全の孫)と結んだ備前国松田元成赤松家守護所櫛橋則伊小鴨大和守ら赤松方の諸将籠る備前福岡城を急襲したこの際に政秀と浦上則宗の子・則景が福岡城救援派遣されたが、福岡城到着する前の同年12月25日赤松政則本隊播磨に迫る政豊を迎撃する大敗し真弓峠戦い)、政則が山名軍に敗れ姫路へと敗走した報に兵に動揺走り結局福岡城救援には向かうことが出来ず途中で播磨へと兵を返した。これによって福岡城奪われ播磨備前美作の3ヶ国における赤松家威信大きく揺らいだこの後則宗小寺則職らが共謀して権威失墜した政則を廃して有馬寿丸(澄則か)を新たな君主に擁立すべく大御所足利義政働き掛けるという事件があったが政秀はこの企てには参加していなかった。この後申請却下された為、播磨国衆に山名寝返る者や勝手に新たな赤松氏当主擁立しようと目論む者などが出始め更に混乱し一時浦上氏本拠である三石城まで包囲されるなど危機に立たされた。 文明17年1485年)閏3月末、京で隠棲していた政則が幕府援助受けて復帰して木城攻め落とした。この報を政秀らは京都聞き相国寺蔭涼軒亀泉集証訪ねて祝宴行ったという。この一件以降、政秀や則宗正式に政則と和睦して再び盟主仰ぎ指揮下に入る事となった。そして間も無く、政秀は出家して高枕軒性喜と号した以後は子・則貞が政秀の担っていた郡代職務にあたるようになる長享2年1488年)には福岡城奪還され、播磨進行していた山名軍も領国へと引き上げ足掛け6年及んだ山名氏のとの戦い終結したが、政則はこの山名氏との戦に功のあった別所則治を東播磨8郡の守護代任命し、政秀の守護代担当区分西播磨半国へと縮小された。

※この「福岡合戦」の解説は、「宇野政秀」の解説の一部です。
「福岡合戦」を含む「宇野政秀」の記事については、「宇野政秀」の概要を参照ください。

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