福岡合戦
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文明15年(1483年)、山名政豊(宗全の孫)と結んだ備前国の松田元成が赤松家の守護所で櫛橋則伊や小鴨大和守ら赤松方の諸将の籠る備前福岡城を急襲した。この際に政秀と浦上則宗の子・則景が福岡城救援に派遣されたが、福岡城に到着する前の同年12月25日に赤松政則の本隊が播磨に迫る政豊を迎撃するも大敗し(真弓峠の戦い)、政則が山名軍に敗れ姫路へと敗走した報に兵に動揺が走り、結局福岡城救援には向かうことが出来ず途中で播磨へと兵を返した。これによって福岡城は奪われ、播磨・備前・美作の3ヶ国における赤松家の威信は大きく揺らいだ。 この後、則宗や小寺則職らが共謀して権威の失墜した政則を廃して、有馬慶寿丸(澄則か)を新たな君主に擁立すべく大御所・足利義政に働き掛けるという事件があったが政秀はこの企てには参加していなかった。この後申請が却下された為、播磨国衆に山名に寝返る者や勝手に新たな赤松氏当主を擁立しようと目論む者などが出始め更に混乱し、一時は浦上氏の本拠である三石城まで包囲されるなど危機に立たされた。 文明17年(1485年)閏3月末、京で隠棲していた政則が幕府の援助を受けて復帰して蔭木城を攻め落とした。この報を政秀らは京都で聞き、相国寺蔭涼軒の亀泉集証を訪ねて祝宴を行ったという。この一件以降、政秀や則宗は正式に政則と和睦して再び盟主と仰ぎ指揮下に入る事となった。そして間も無く、政秀は出家して高枕軒性喜と号した。以後は子・則貞が政秀の担っていた郡代の職務にあたるようになる。 長享2年(1488年)には福岡城が奪還され、播磨に進行していた山名軍も領国へと引き上げ、足掛け6年に及んだ山名氏のとの戦いが終結したが、政則はこの山名氏との戦に功のあった別所則治を東播磨8郡の守護代に任命し、政秀の守護代の担当区分は西播磨半国へと縮小された。
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