福岡国体誘致、ボストンマラソンの勝利
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1947年(昭和22年)第3回国民体育大会の福岡誘致の為、福岡市長 三好弥六の要請で準備委員長に就任。 1948年(昭和23年)第3回国民体育大会(福岡国体)国体事務局長に就任。福岡県体育協会 理事長就任。(福岡県体育協会シンボルマークは岡部のデザイン) 1950年(昭和25年)金栗四三らと戦後のマラソン界再建の為「オリンピックマラソンに優勝する会」を発足させ、各地の有力選手を発掘すると共に、国内ではまだ一般的でなかったインターバルトレーニングやクロスカントリーを練習に取り入れ、合宿で徹底指導を行った。(田中茂樹、西田勝雄、広島庫夫、山田敬蔵、浜村秀雄、貞永信義ら第一級選手を育成) 1951年(昭和26年)第55回ボストンマラソンに向けて結成された派遣団の日本代表監督に就任。田中茂樹選手が優勝(日本人初参加での快挙)。同年10月から1952年(昭和27年)6月にかけて福岡県立修猷館高等学校で講師を務める。 1952年(昭和27年)福岡学芸大学(後に福岡教育大学に改称)専任講師に就任、拓殖大学教授を兼任する。以後、主に研究・執筆活動に入る。
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