福岡吉本時代とは? わかりやすく解説

福岡吉本時代

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/05 09:31 UTC 版)

パンクブーブー」の記事における「福岡吉本時代」の解説

メンバーは元々吉本興業福岡事務所(現・吉本興業福岡支社、以下「福岡吉本」と記述)に所属しており、佐藤6期生黒瀬8期生としてデビュー佐藤は約6年間、黒瀬は約4年福岡吉本在籍していた。当時佐藤赤峯康一コンビモンスターズ』を組み、『Hi-Ho!』などの番組出演していた。黒瀬バッドボーイズ同期で、上荒磯コンビバレッタ』を組んでいた。2人初対面黒瀬を含む福岡吉本8期生歓迎会で、佐藤その2上の先輩として彼らと顔を合わせた佐藤黒瀬のことを「ダサイ奴」と思い黒瀬の方は佐藤を「寡黙雰囲気のある、ちょっと怖い先輩」として見ていた。しばらくは特に大きな接点もないままであったが、パチンコ好きで目押し得意だった2人コンバット満MC深夜パチンコ番組レギュラー抜擢され、それをきっかけとして親交深めるうになる。 やがてお互いコンビ同時期に解散し上京考えていた2人自然と行動共にするうになる。そしてたまたまボケとツッコミだったことから2001年4月現在のコンビ結成結成当初コンビ名は『ブーブー・ザ・パンク』だったが、程無くして現在のコンビ名改めたコンビ名の由来それぞれの解散してしまったコンビを車に例え、「車(ブーブーコンビ)がパンクしてくっついて力を合わせればまだ走れる」という意味。ただしM-1では後述のようにそのコンビ名原因で、スポンサーカー用品店だっただけに扱い苦慮していたというエピソードもある。

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福岡吉本時代

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/08 19:52 UTC 版)

博多華丸・大吉」の記事における「福岡吉本時代」の解説

デビュー時点では深刻なコンビ格差生じ、『お笑いめんたい子』優勝コンビである『ター坊ケン坊』のター坊としてデビューした竹山隆範(後のカンニング竹山)と華丸2トップとして売り出され福岡吉本1期生総出演の『どっちもどっち博多っ子倶楽部』(TVQ)にレギュラー出演決まったものの、大吉フロアディレクターとして見切れる形で出演していた。竹山1年福岡吉本辞めたことで漸く大吉にも出番回ってくるようになり、大吉は「竹山上京しなかったら今でも裏方続けていただろうし売れてもいなかった」と語っている。以降華丸福岡吉本看板芸人として、大吉MCとしてローカル番組出演し続け、『夜はとことん』『とことんサンデー』『華丸・大吉鉄腕ももち』(テレビ西日本)、『今夜も大勉強!』(RKB毎日放送)など多くレギュラー番組獲得し福岡県内中高生中心にトップクラス人気確立1995年フジテレビめちゃ²モテたいッ!』において「福岡人気芸人」として紹介され福岡に来たナインティナインらとの共演果たしている。また、この時にナイナイは『とことんサンデー』にゲスト出演し以降2組親交深める。なお、当時華丸・大吉司会MCが主で、テレビで漫才披露する機会はほとんどなかった。 1997年、『とことんサンデー』においてテレビ西日本福岡吉本了承を得ないまま大吉1年間アメリカ留学させ、随時番組でその模様追いかける企画番組上で発表した。しかし吉本側了承も無いままの発表だったため、同局吉本との間でトラブル発展した。このトラブル背景には、地元局と福岡吉本2代目所長だった玉利寛の仲が悪かったことが挙げられる大吉はこのトラブル解決するまで1年間自宅待機強いられ実質休業番組急遽打ち切られた。この休業期間中に大吉ネタ書き溜め以降ネタ作りそれまで華丸中心から大吉中心移行した大吉休業明けた1998年4月からは『とことんサンデー』と同じ時間帯に同じコンセプト番組Hi-Ho!』が開始。しかしテレビ大阪深夜番組吉本超合金』が福岡でも放送開始されたことや、1999年福岡吉本自前劇場吉本111劇場」がオープン大阪吉本芸人福岡劇場出演し始めたことで「大阪笑い」が福岡にも入るようになった吉本超合金メイン出演者であるFUJIWARA2丁拳銃には福岡でも熱狂的なファンがつき、華丸・大吉ネタウケていた観客一切笑わなくなったまた、人気者FUJIWARA『めちゃ×2イケてるッ!』ではスベリキャラの様に扱われている姿を見て大吉東京テレビ畏怖の念覚えた1999年から2003年まで『爆笑オンエアバトル』へ出演し13勝4敗でゴールドバトラー認定された。 2001年第1回M-1グランプリ』へ出場する結果11位で決勝進出逃した結成10年以下の出場資格定められていた中、既に結成11年だったため出場資格無かった初回のM-1は日本各地吉本劇場客席審査員を置くシステムだったことから、福岡吉本からも1組出場させたい吉本興業側から出場要請受けたこと、またとある作家に「改名すれば、芸歴1年目リセットされるので出場できると言われて「華丸マル大吉名義出場した準決勝まで進み、ほぼ決勝進出するからと本放送直前の『ナイトinナイト』(ABC)の生出演が決まるなどがなされたが、直前主催者側から「10年超えているのはやはり駄目」と実質失格扱いとなった。この時点結成10年超えていたため次年度以降出場できず、これが最初で最後のM-1出場となった2002年頃から華丸・大吉東京進出賭け機運高まっていたが、2人に目をかけていた当時吉本社長林裕章が病に倒れたことや、福岡吉本側が看板芸人である華丸・大吉手放したくなかった事情もあってこの話は一旦立ち消えとなった2004年4月屋号博多変更し現在の芸名改名する改名きっかけ姓名判断に詳しい福岡事務所女性パート職員退職する際、「『鶴屋』と『亀屋』は運気的に最低の名前」「『鶴屋』がほぼ0点に近い。『亀屋』は口に出せない(ほど最悪)」と判断され、「ずっと気になっていた。お願いだから改名し欲しい」と頼まれたためである。その女性から「いい名前がある」と勧められたのが「博多」の屋号で、「屋号博多変えて2年以内2人が東に向かうと運気上がる」ともアドバイスされた。 改名に際してかつて博多淡海名乗っていた元吉本新喜劇座長木村進にも報告し快く認めてもらったという。

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