概要・芸風
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/06 09:35 UTC 版)
2015年、ワタナベコメディスクール22期の同期として出会い、2016年4月6日にコンビを結成。2018年5月にラフィーネプロモーションに所属した。 ラスタ池袋などに多く出演。シマダネズミの方が圧倒的に台詞量の多い「ワンオペ漫才」を主に行う。 フランスピアノとたびたびツーマンライブをしている。 2022年2月28日、所属事務所を離れフリーで活動していく事が発表された。
※この「概要・芸風」の解説は、「シマウマフック」の解説の一部です。
「概要・芸風」を含む「シマウマフック」の記事については、「シマウマフック」の概要を参照ください。
概要・芸風
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/13 19:40 UTC 版)
『あなたの街に“住みます”プロジェクト』で、埼玉県2代目“住みます”芸人に就任。 けんちゃんがショートギャグを演じた後、てっちゃんが旗(両面には「ふくろとじ」と「がんばれけんちゃん」という文字が入っている)を振って「がんばれ、がんばれ、けんちゃん。」と言ってツッコミや茶化しのセリフなどを入れるのが主なもの。この他、てっちゃんの彦摩呂の物真似を中心としたショートコントも行う。 てっちゃん曰く自分達は「ボケ」と「サポート」 最近では漫才も披露している。 2012年12月14日、ひらがな表記の「ふくろとじ」から、カタカナ表記の「フクロトジ」に変更。同時に芸名も「けんじ」、「てつみち」から本名にした。 2013年10月10日、両者のブログにて2013年10月末日を以ってのコンビ「フクロトジ」の解散、ならびに山口はけんじる、川口はてつみちとしてそれぞれピン芸人として活動することを発表。
※この「概要・芸風」の解説は、「フクロトジ」の解説の一部です。
「概要・芸風」を含む「フクロトジ」の記事については、「フクロトジ」の概要を参照ください。
概要・芸風
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/18 20:06 UTC 版)
2014年に結成。2人とも東京NSC16期生で、同期にはコロコロチキチキペッパーズ、サンシャイン、ゆにばーすなどがいる。主にチャラ男を生かした芸風で、EXITの結成のきっかけとなったとも言われている。
※この「概要・芸風」の解説は、「ちゃらん婆」の解説の一部です。
「概要・芸風」を含む「ちゃらん婆」の記事については、「ちゃらん婆」の概要を参照ください。
概要・芸風
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/12/05 03:32 UTC 版)
コンビ結成時期不明(1940年には既に名がある)。戦後は戎橋松竹によく出ていた。 芝居物を得意とし、夢路いとし・喜味こいしの十八番「ポンポン講談」(「曽我物語」のパロディ)は、元は洋々・正二郎の持ちネタだった。 1967年頃、洋々の廃業によりコンビ解消。
※この「概要・芸風」の解説は、「鹿島洋々・林正二郎」の解説の一部です。
「概要・芸風」を含む「鹿島洋々・林正二郎」の記事については、「鹿島洋々・林正二郎」の概要を参照ください。
概要・芸風
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/07/14 07:57 UTC 版)
東宝芸能学校の同級生だった2人の片野えくぼと毬本にきびが初代柳ほくろを誘って1960年6月にトリオ結成。初代柳ほくろは6代目春風亭柳橋門下で春風亭笑橋を名乗る落語家であった、のちに柳亭小痴楽(のちの春風亭梅橋)と結婚し家庭に入った。二代目柳ほくろは中学卒業したのちに船橋ヘルスセンター少女音楽隊で音楽を学ぶ。また近所にシャンバローの柳四郎が住んでいた関係で弟子入りし三味線、長唄を稽古を受けた。1961年5月に二代目柳ほくろが加入し再結成された。
※この「概要・芸風」の解説は、「東京あんみつ娘」の解説の一部です。
「概要・芸風」を含む「東京あんみつ娘」の記事については、「東京あんみつ娘」の概要を参照ください。
概要・芸風
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/10/16 09:19 UTC 版)
前身は1947年頃に結成された「ちゃっかりトリオ」(柳四郎、岡三郎、宮田五郎)。長唄出身者(四郎は稀音家政造、三郎は不明。五郎はリーダーで杵屋佐行)トリオのボーイズで、「三味線バロー」を経て、1950年に五郎が脱退し音大出身の邦一郎が参加した際に「シャンバロー」と改名。普段は白いズボンでアロハシャツやポロシャツなどを着ていたが新春興行やめでたい時は紋付き袴で本格的な長唄を演じていた。1968年芸術祭奨励賞受賞。 邦楽を下地に、洋楽から歌謡曲までこなす芸達者だったが、1978年の岡三郎の引退、柳四郎の糖尿病もあり1982年11月に活動休止。1983年7月解散した。十八番ネタは「長唄たぬき」。長唄の「昔噺たぬき」のアコーディオンと三味線の合奏で受けを取った。
※この「概要・芸風」の解説は、「シャンバロー」の解説の一部です。
「概要・芸風」を含む「シャンバロー」の記事については、「シャンバロー」の概要を参照ください。
概要・芸風
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/21 08:26 UTC 版)
「ロケット団 (お笑いコンビ)」の記事における「概要・芸風」の解説
元サラリーマンの三浦と劇団員の倉本により、劇団内で結成。2000年に劇団を退団し、本格的に漫才に取り組む。師匠はおぼん・こぼん。 コンビ名は劇団の先輩が命名。当初は「ロケット弾」として活動していた。ポケットモンスターに登場する悪の組織と同名だが全くの偶然であり誤解される事が多く、幼稚園の卒園式で子供達に泣かれてしまった事がある。 師匠のおぼん・こぼんと異なり漫才協会および落語協会に属していることから、浅草東洋館での漫才協会定席のほか、寄席での落語協会定席などを中心に活動している。 以前はサンドウィッチマン、あぁ~しらきの3組による自主ライブ『鈍器のような者』を行っていた。 ナイツ、宮田陽・昇、ホンキートンクを加えた4組で「漫才協会の四天王」と、ナイツ、Wコロンを加えた3組で「漫才協会の三羽烏」と称される。 漫才は基本的に時事ネタ。芸能人の不祥事(薬物使用等)や北朝鮮など際どい題材を扱うことも多い。テレビではネタ見せの段階でNGを出され修正を余儀なくされることも多いが、逆に新春!お笑い名人寄席ではテレ東サイドよりこれらのネタを指定されるという。 爆笑レッドカーペットでは一貫して倉本が最近話題の外来語を言い、三浦が「そんなの山形じゃずいぶん前から使ってますよ」と言うが、それは外来語ではなく訛っているからそう聞こえるだけであるという山形弁ネタを展開していた。 2011年に漫才協会23組目の真打昇進。同年11月29日の第42回漫才大会で披露興行を行う。なお、これにより師匠よりも先に真打に昇進したことになり、おぼん・こぼんも口上で自嘲気味にネタにしていた。 2015年2月にトービックを離れ、かねてより親交のあったサンドウィッチマンの所属事務所であるグレープカンパニーへ移籍した。 隔月で新宿末廣亭で「定例集会」と称したライブを開催している。2020年に通算100回目になることを記念し特別公演を予定していたが、新型コロナウイルス感染症の拡大を受け3月、5月と公演が延期となり、9月にサンシャイン劇場にて、シークレットゲストにサンドウィッチマンを迎えようやく開催された。また同年に三浦の地元・山形で定例集会をレギュラー開催する計画も発表されたが、こちらも同様に延期が続き、初回は翌21年5月に開催された。2021年は末廣亭の深夜寄席枠に依然再開の見込みが立たないことから、江戸東京博物館大ホールで3回開催された。 倉本の愛煙家ぶりは語りぐさになることが多く、オキシジェンがよくものまねしている。 三浦は2013年に結婚したが2020年12月15日に離婚。離婚について相談していたサンドウィッチマンに、2021年2月20日の長野のステージ上で離婚を不意打ちに観客の前でバラされてしまい、翌日のブログで離婚を正式に発表した。 2021年10月6日放送の水曜日のダウンタウンにて、師匠のおぼん・こぼん企画のこぼんの娘の結婚式に参列したが、紹介のみで発言などが取り上げられることなく終わった。
※この「概要・芸風」の解説は、「ロケット団 (お笑いコンビ)」の解説の一部です。
「概要・芸風」を含む「ロケット団 (お笑いコンビ)」の記事については、「ロケット団 (お笑いコンビ)」の概要を参照ください。
概要・芸風
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/07/23 23:08 UTC 版)
「DonDokoDon」の記事における「概要・芸風」の解説
コンビで行う漫才は山口のモノマネを活かしたスタイルで、対照的に平畠は地味なキャラクターを売りにしている。 共に1968年度生まれで、山口が2000年頃にはブレイクしレギュラー番組を多数持ったことから2000年代半ばにはベテラン芸人入りしていたと思われがちだが、実際は二人ともサラリーマンを経て25〜26歳で吉本興業に入ったため、同年代の芸人に比べて芸歴は短い。このため、宮迫博之(元雨上がり決死隊)、千原兄弟、ナインティナイン、ココリコ、中川家、陣内智則など年下の先輩が多い。ロンドンブーツ1号2号・ペナルティや、大阪NSCでは12期生の小籔千豊・土肥ポン太などが同期に当たる。1年先輩には中川家・陣内・ケンドーコバヤシなど、1年後輩には次長課長・タカアンドトシなどがいる。
※この「概要・芸風」の解説は、「DonDokoDon」の解説の一部です。
「概要・芸風」を含む「DonDokoDon」の記事については、「DonDokoDon」の概要を参照ください。
概要・芸風
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/08/02 10:09 UTC 版)
菊丸こと二代目砂川捨丸は神戸の鉄工所(鍛冶屋)の息子で、兄が家業を継いだ。16歳の時に家業の道具を売りさばいたことで東京に家出し芝居の世界に飛び込むも背が小さいということで断られ、仕方なく神戸に戻り何気なく見に行った寄席で砂川捨丸の芸を知る。見よう見真似で友人とコンビを組み天狗連に出演。後に周囲の勧めで砂川捨丸に弟子入りし二代目砂川菊丸。昭和に入り妻となる照子と組む。のちに照子は照代と改名。 戦後は戎橋松竹に出ていたが捨丸が引退中だったということもあり兄弟弟子の勧めで二代目捨丸を襲名。(襲名の経緯に関しては砂川捨丸・中村春代#註の項を参照)長らく主要劇場には呼ばれずドサ回りをしたり、地方で闇で安く石炭を手に入れ売ったりして生計を立てた。 1971年に初代捨丸が没したため復帰を勧められたがほとんど活動せずその後照代が亡くなり菊丸は一人身になり、ひっそり過ごしたのち亡くなった。 家庭は子宝に恵まれた。何人かが菊丸の元で漫才の修行をしたが物故したり、結婚を期に辞めたりなどした。そのうちの一人は後に曲芸師の田中チャップリンの弟子で乙女節子と名乗り、曲芸(皿回しの芸など)の修行を積んだが、玉松キャップ・中田チャックのキャップと結婚して廃業した。 菊丸は初代捨丸と風貌、背丈が瓜二つだったため、チョビ髭を生やしやはり鼓を持つなど初代捨丸を意識した芸風であった。また、松葉家奴がおこなっていたような、大きな懐中時計を懐から取り出すギャグも行っていた。 1971年放送のNHK「新日本紀行 浪華芸人横丁 ~大阪天王寺・山王町~」の中で菊丸の様子が確認できる。なお朝日放送の和朗亭にも出演をしている。
※この「概要・芸風」の解説は、「砂川菊丸・照代」の解説の一部です。
「概要・芸風」を含む「砂川菊丸・照代」の記事については、「砂川菊丸・照代」の概要を参照ください。
概要・芸風
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2018/03/26 03:26 UTC 版)
「新谷のぼる・泉かおり」の記事における「概要・芸風」の解説
のぼるは最初は梅田OSミュージックのコメディアンやヴォードヴィル等を経て、しゃべくりを交えたコミックマジシャンをやっていた。 かおりは漫才作家の秋田實の最後の弟子。それ以前は東京でコロムビア・トップ・ライトの門下で女性とコンビを組んでいた。 名古屋の大須演芸場に出ているころ誘われ、1975年より吉本の花月に上がるようになる。 1982年に離婚しコンビ解消。
※この「概要・芸風」の解説は、「新谷のぼる・泉かおり」の解説の一部です。
「概要・芸風」を含む「新谷のぼる・泉かおり」の記事については、「新谷のぼる・泉かおり」の概要を参照ください。
概要・芸風
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/01/01 11:34 UTC 版)
福岡吉本6期生。結成当初は福岡吉本に在籍。コンビ名は現在と一緒だが、東京吉本への移籍を機に「LOVE」に改名。現在の事務所への移籍の際にコンビ名を戻す。 福岡吉本時代の同期には佐藤哲夫(パンクブーブー)、ヒロシ、同事務所所属のスパローズがいる。この四者は今でも交流があり、たかしが佐藤にM-1のお祝いメールをすると、「これを期に6期全員ブレイクしよう、マジで6期は実力あるやつ揃ってたと思うから」という返信が来たとのこと(ブログより)。 2011年8月12日 ひできの引退により解散。[リンク切れ] たかしはピン芸人として活動。 主に漫才。肥筑方言(博多弁)を主に使う。ひできが「たかしちゃ~ん」と、たかしに「そんなのこ(ん)まい」と言われるネタを振った後に、たかしが大きな感じの話をしてひできが「(心も体も)太かね~」と言うパターンのネタがある。ショートネタの際は二人が「サーセン(済みません)」とデブに関するあるあるネタを言いながら、謝るネタをする。たかしが『たかしちゃん』の名前で出場したR-1ぐらんぷり2010では、一人でこの謝るネタを演じた。 Tシャツを着て出演することが多く、謝るネタの時には二人とも「サーセンm(__)m」とプリントされたものを着ているが、それ以外では、最近では「肉しか信じない!」とプリントされたものを着ていることが多い。
※この「概要・芸風」の解説は、「たかしひでき」の解説の一部です。
「概要・芸風」を含む「たかしひでき」の記事については、「たかしひでき」の概要を参照ください。
概要・芸風
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/11/08 02:06 UTC 版)
2007年に『エンタの神様』の打ち合わせの現場で、番組プロデューサーの五味一男により出会い、「姉弟」という設定でコンビを組むようになる、同番組に6回出演。なお、Mint姉弟としては、2009年中にはM-1グランプリ出場や、テレビショッピング専門チャンネル・QVC・あらびき団出演などの活動もある。活動は順調であったが、しんごが体調を崩し、しばらく休業する。 なお、一時期しんごがすぎはらに好意を抱いていた時期があり、企画ですぎはらへの告白をしたが、あっさりと失敗に終わった。 2013年1月5日のすぎはら美里の公式ブログにて、すぎはらの友人に楽しんごが拉致暴行し全治2週間の怪我を負わせた為、楽しんごと縁を切っており、コンビとしての活動は既に終了していることが発表された。ただし、彼女の発言の内容は、しんごの2013年現在の所属先である吉本興業によってデマとして一蹴されており、また該当記事が「内容が独り歩きして悪影響を及ぶ可能性がある」として現在は削除されてしまっているため、真偽のほどは不明のままとなっている。 2020年6月4日、しんごが自身のTwitterで「伝説のコンビMINT兄弟の元相方りーねーとも仲直りしましたー!」と2ショット写真付きでツイートし、絶縁状態だった両者の関係が回復した事を明かした。
※この「概要・芸風」の解説は、「Mint姉弟」の解説の一部です。
「概要・芸風」を含む「Mint姉弟」の記事については、「Mint姉弟」の概要を参照ください。
概要・芸風
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/01/02 01:39 UTC 版)
元々、なべは1986年に別の相方と「ビックボーイズ」として活動していたが、相方に逃げられたため羽生を2代目の相方とした。 漫才の冒頭になべが「私がビックボーイ、彼がズ」と言い、羽生が「俺はスに点々かい」と返すと「いや、すってんてんだ」となべに言い返されるつかみがある。 漫才の終盤に「たまらんぜ」というラップを歌うことがある。「たまらんぜ」は有線で聞くことが可能である。『やりすぎコージー』の「やりすぎFBI」(2008年12月22日放送)で取り上げられた。やりすぎFBI捜査官はナイツ塙。 2006年11月に真打に昇進。 2008年、ラップ「たまらんぜ!」CD化。 毎月8日間 「浅草東洋館出演」 毎年1回、「ビックボーイズとゆかいな仲間たち」を開催(浅草東洋館)。毎回多彩なゲストを招いて盛り上がる。2017年は“ナイツ”が出演して会場を沸かせた(2017年3月21日)。
※この「概要・芸風」の解説は、「ビックボーイズ」の解説の一部です。
「概要・芸風」を含む「ビックボーイズ」の記事については、「ビックボーイズ」の概要を参照ください。
概要・芸風
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/08/06 16:56 UTC 版)
本間と中嶋は小学6年生から中学生の時に同じクラスだった。中学3年の時に3on3の大会に出るグループ名として、カタカナ書きの「ヤ団」が誕生。大学4年の頃、やることもなく、町をうろつきながら動画を撮影していた際、本間と高田馬場にあるラーメン屋に入る。この店が「渡なべ」という名前であり、ひらがなと漢字の組み合わせがしっくりきたことから、「や」をひらがなにした。トリオ名の由来が毛利元就の三本の矢、というのは後に先輩の発案を拝借しただけで嘘である。アクセントは「ジダン」と同じである。 同じ大学に進学したが、学部の違いから本間は静岡へ向かう。一方東京の中嶋は大学1年の頃からお笑いを志したが、漫才コンビを組みたいと考えていた本間が静岡にいることから叶わず、海野健太郎を相方に選ぶ。しかし本間のことを諦めたわけではなく、静岡に時々顔を出すことで関係を繋ぎ止めていた。またトリオで活動することを見越して、海野を通じて本間をコンサートに誘うなどして友情を深めていった。静岡にいた本間はお笑いやミュージシャンなど、表現にたずさわりたいと考えていたが、親に打ち明けることができず、就職活動をし、実際に就職先の研修にも足を運んだ。しかし大学卒業とともに就職への道をなげうって東京に戻り、や団を結成するに至ったという。 当初はフリーで活動していたが、事務所入りを検討する時期になり、ネプチューンが好きだったことからワタナベエンターテインメントを目指す。しかし別の芸人から設立されたばかりのSMAを勧められ、実際にSMAで面接してくれたのが日大の先輩の平井精一であったことから、2005年4月、SMA NEET Projectに所属することとなる。 スタート時は本間、中嶋、海野の3人でのトリオで、事務所ライブのトップ集団の常連であったが、2007年には結婚を機に海野が脱退。トリオでの活動を続けたいと考えていたところ、面接でもアドバイスを受けた平井からピンで活動していたロングサイズ伊藤の存在を知らされる。伊藤は一時期東京NSCに入学していたが、勉強してまでお笑いをすることに違和感を覚え、2か月で退学。以降は就職していたが、お笑いを諦めきれず、SMA NEET Projectに在籍していた。当初はフリップ芸などを行っていたが、事務所ライブでは最下位にいた。そのため平井が伊藤を紹介したときには「辞めてしまうかもしれない」という状態であった。こうして伊藤が加入し、現在のメンバーとなる。 芸風は主にコント。本間の好みで、ザ・クロマニヨンズの「弾丸ロック」をもじった「弾丸コント」というキャッチコピーをつけている。ロングと本間がコント形式のボケを行い中嶋がツッコミを入れるという形式が多いが、最近は本間がツッコミのネタも多い。キングオブコント2009、2014、2016、2017、2018、2019準決勝進出。2019年は所属事務所唯一のセミファイナリストだった。
※この「概要・芸風」の解説は、「や団」の解説の一部です。
「概要・芸風」を含む「や団」の記事については、「や団」の概要を参照ください。
概要・芸風
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/04/10 15:04 UTC 版)
「道和多比良・大津おせん」の記事における「概要・芸風」の解説
多比良は落語家の桂小米喬(後の喜劇の曾我廼家満月)の弟子で曾我廼家満平。 おせんは女道楽の大津お万の弟子で橘家若千代。橘家菊春・太郎の芸に影響を受ける。最初は女道楽で高座に出る。戦後落語芸術協会に所属していた檜山さくらは兄弟弟子。また東京で漫才をやっていた大津万龍も兄弟弟子。 十八番はおせんの弾く三味線の安来節にあわせて多比良がねじり鉢巻をし滑稽などじょうすくいを踊ると、ざるの中から手品仕掛けで本物のどじょうが数十匹出てくるというもの。他にも扇子を使った松づくし等珍芸を得意とした。二人はこれらの珍芸を「漫芸」と称した。 1973年に多比良が没しおせんは引退した。 実子が音楽ショウ「スプリングボーイズ」(ザ・ダッシュの前身)リーダーであった森ミネオ。
※この「概要・芸風」の解説は、「道和多比良・大津おせん」の解説の一部です。
「概要・芸風」を含む「道和多比良・大津おせん」の記事については、「道和多比良・大津おせん」の概要を参照ください。
- 概要・芸風のページへのリンク