趙長とは? わかりやすく解説

Weblio 辞書 > 辞書・百科事典 > 百科事典 > 趙長の意味・解説 

趙長

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2018/09/24 03:06 UTC 版)

Jump to navigation Jump to search

趙 長(ちょう ちょう、生没年不詳)は、五胡十六国時代前涼の人物。

生涯

前涼に仕え、司兵に任じられた。

346年張駿が没して張重華が立つと、趙長は西郊に派遣され、秋を迎える儀式を執り行った。

趙長は張重華に媚び諂い、女や酒を奨めて堕落の道を歩ませた。これによって張重華の寵愛を受けるようになり、尉緝らと共に権勢の一旦を担うようになった。

353年10月、張重華が病を患うようになると、彼の庶兄である長寧侯張祚は密かに国を乱そうと考えた。趙長はその企みに協力すると、張祚と結びつきを強めて異姓兄弟となった。酒泉郡太守謝艾は張重華へ上疎し「権臣、佞臣が専断しており、公室の危機でございます。長寧侯祚と趙長らは将に乱を為すでしょう。これを放逐すべきです。」と述べたが、聞き入れられなかった。

11月、張重華の病がさらに篤くなると、彼は謝艾を衛将軍・監中外諸軍事に任じ、子の張耀霊の輔政を命じる勅書を自ら書いたが、趙長は張祚と共にこれを秘匿し、発表しなかった。間もなく張重華がこの世を去ると、張耀霊が後を継いだ。趙長らは張重華の遺詔を捏造し、張祚を使持節[1]・都督中外諸軍事・撫軍大将軍[2]に任じ、張耀霊の輔政を委ねた。趙長は右長史に任じられた。

12月、趙長らは建議して「時難は未だ平らげられておらず、年長の主君を立てるべきです。耀霊は沖幼であり、どうか長寧侯祚を立てていただきますよう」と陳述した。張重華の母である馬氏はこれを認め、張耀霊は廃されて張祚がその位を簒奪した。

354年1月、趙長らは張祚へ王位に即くよう勧め、張祚はこれに応じて謙光殿において涼王[3]を称した。趙長は功績により領軍将軍に任じられ、張祚の側近となった。

355年7月、宗族である河州刺史張瓘は張祚の誅殺を掲げて挙兵し、8月には驃騎将軍宋混もこれに呼応した。9月、宋混が姑臧に逼迫すると、張瓘の弟である張琚と子の張嵩が内側から呼応し、城門を開いて宋混軍を迎え入れた。趙長らは禍を恐れ、宮門を開いて宋混らに寝返った。さらに、閣へ入ると馬氏を呼び寄せて謙光殿に向かい、張祚を廃して張玄靚を主に立てると宣言しし、罪を免れようとした。だが、入殿してきた将軍易揣らに捕らえられ、殺害された。

参考文献

脚注

  1. ^ 晋書には持節とある
  2. ^ 晋書には撫軍将軍とある
  3. ^ 晋書には帝位に即いたとある



英和和英テキスト翻訳>> Weblio翻訳
英語⇒日本語日本語⇒英語
  

辞書ショートカット

すべての辞書の索引

「趙長」の関連用語

趙長のお隣キーワード
検索ランキング

   

英語⇒日本語
日本語⇒英語
   



趙長のページの著作権
Weblio 辞書 情報提供元は 参加元一覧 にて確認できます。

   
ウィキペディアウィキペディア
All text is available under the terms of the GNU Free Documentation License.
この記事は、ウィキペディアの趙長 (改訂履歴)の記事を複製、再配布したものにあたり、GNU Free Documentation Licenseというライセンスの下で提供されています。 Weblio辞書に掲載されているウィキペディアの記事も、全てGNU Free Documentation Licenseの元に提供されております。

©2025 GRAS Group, Inc.RSS