君主の時代
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/11/08 07:22 UTC 版)
石虎は王位に即いて以降、遊楽に溺れて政治を廃するようになり、宮殿を始め多くの場所の営繕を行った。非道な法律や重い税金と労働を課し、それを大宮殿を建てたり妾を集めることに費やしたので、民百姓は大いに困窮した。また酒や女に荒耽するようになると、次第に感情の抑制が効かなくなり、些細な事でしばしば激怒し、粛清を連発した。狩猟・微行にも節度がなく、夜明けと共に出て夜になるまで帰って来ない事もあった。また、密かに城を出ては作役の様子を監視する事もあった。 その一方、経学に対しては大いに関心を持っており、国子博士を洛陽に派遣して石経を写し取らせ、その経を秘書に校註させている。国子祭酒聶熊は『穀梁春秋』に注を附した事が認められ、学官に列している。また、仏教に対しては寛容で、自ら仏教徒を称しており、仏図澄を国師待遇した。漢人官僚である著作郎の王度が仏教は外国の神であるので排除すべきである、と石虎に諫言したところ、石虎は「自分は辺境の(夷狄の)出身だから、戎神を祀るのは当然である」として、これを退けたという(『高僧伝』仏図澄伝)。 また、石勒同様に貪欲な性格で、礼を修めていなかった。十州の地を領有し、金帛・珠玉から外国の珍奇や異貨を集め、府庫にある財物は数えきれないほどであったが、それでもなお満足していなかった。その為、先代帝王や先賢の陵墓をも全て発き、副葬されていた宝貨を奪ったという。
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