三十年戦争から 第1回礼拝まで
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/11/08 13:46 UTC 版)
「エアランゲン」の記事における「三十年戦争から 第1回礼拝まで」の解説
ヴェストファーレン条約の締結によって、エアランゲンは三十年戦争終結後も福音主義の領域に留まった。「クリスティアン・エアラング」、すなわち新市の建設によって初めて、新しい都市建設に貢献するのであればカトリック住民も移住できるようになった。彼らには1711年に、ヴェストファーレン条約で保証された最小限の宗教上の権利である「ゲヴィッセンフライハイト」(良心に従って行動する自由)が辺境伯によって認められた。洗礼、結婚、葬儀は福音主義の儀礼に則って行われ、子供達は福音主義の信仰の下で教育された。カトリック信者は、人口が増えるにつれ、1730年頃からより多くの宗教上の権利を求めるようになっていった。フリードリヒ3世辺境伯によって何度か約束された礼拝所の建設は、その都度、市参事会および福音主義やフランス改革派の聖職者による必死の抵抗によって頓挫した。 フリードリヒ大王の即位によって、啓蒙専制君主の時代が始まった。フリードリヒ王の寛容政策の影響下で、辺境伯の立場も次第に変化した。1781年にフランスの騎士クライスの統治権がエアランゲンに移されると、アレクサンダー辺境伯はカトリック貴族に私的な礼拝の許可を与えた。貴族の従者たちも同じ権利を請願した。1783年1月16日、アレクサンダー辺境伯はエアランゲンにカトリックの私的な礼拝施設を建設することを決定した。1784年4月11日、旧市街市庁舎の大ホールで、250年以上ぶりにミサが挙行された。同じ年に礼拝所建設の許可が下りた。
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