三十年戦争およびそれ以後とは? わかりやすく解説

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三十年戦争およびそれ以後

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/06/10 13:46 UTC 版)

帝国クライス」の記事における「三十年戦争およびそれ以後」の解説

三十年戦争」も参照 三十年戦争では、カトリック・プロテスタントが混在する状況にある帝国クライスは、クライス内の平和を最優先掲げ中立保とうとした。そしてこの試みは、三十年戦争中頃までは有効であった。しかし、スウェーデン参戦し、その圧力強め始めたことで状況変わっていった。1631年ザクセン選帝侯ヨハン・ゲオルク1世新教等族集めたライプツィヒ同盟結成しスウェーデンにも皇帝にも荷担せず中立を保つことを宣言するとともに同盟軍組織した。この同盟軍シュヴァーベンフランケン、オーバーザクセン、ニーダーザクセンの各クライスから帝国執行令に従うかたちで徴兵された。 しかし、カトリック教徒同盟軍ザクセン選帝侯領侵攻し選帝侯スウェーデン軍頼った時点中立破綻したまた、バイエルン・クライス自衛のためのクライス軍を組織したが、1632年にはスウェーデンミュンヘン侵攻許してしまった。リュッツェンの戦いでのスウェーデン勝利を承け南ドイツ4クライスフランケンシュヴァーベンオーバーライン、クールライン)のプロテスタント帝国等族は、1634年スウェーデンハイルブロン同盟締結した。ここでも兵の提供は帝国執行令に従って行われたネルトリンゲンの戦いスウェーデン軍敗れたことでこの同盟解消された。 一方1637年皇帝膨大な軍税を徴収しようと企て、これに対抗するためにケルン選帝侯フェルディナント中心にクライス共同戦線張って中立保とうという動きがあった。1648年ヴェストファーレン条約および1654年帝国最終決定は、1555年帝国執行令再確認したに過ぎず内容新規性はみられなかった。しかし、1663年以降帝国議会単なる情報交換の場と堕し永久帝国議会」と揶揄含んで呼ばれるようになったのに替わってクライス単独ラントの、あるいは合同クライス会議を介して広域の、さらには帝国全体行政運営実体を、帝国代表者会議並んで担うようになっていった。 ルイ14世治世1643年 - 1715年)は、フランスからの圧力強まり地理的に近い帝国クライス、すなわちヴェストファーレンオーバーライン、クールライン、シュヴァーベンフランケンといったクライス対外防衛力としての結束強化する必要性自覚させた。1651年以降これら、西部南部クライス間で防衛同盟形成する動き見られた。1680年代から1690年代多く同盟結ばれ1697年には上記5クライスバイエルン・クライス加えた6つクライス間で永続的な連合結成された。しかし、スペイン継承戦争1701年 - 1714年)でバイエルン選帝侯国フランス同盟するなど、その求心力低下していった。帝国クライス制度は、それでも1801年までは集団防衛力を維持したが、ブランデンブルク=プロイセン巨大化ナポレオン戦争に対応できず、その役割終えた

※この「三十年戦争およびそれ以後」の解説は、「帝国クライス」の解説の一部です。
「三十年戦争およびそれ以後」を含む「帝国クライス」の記事については、「帝国クライス」の概要を参照ください。

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