三十帖冊子事件
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三十帖冊子とは、空海が唐から請来した経籍で、朝廷に進上した分とは別に手元においておくため自ら書写した冊子本。長く東寺に所蔵されていたが、貞観18年(876年)6月、高野山の真然が東寺長者の真雅から借り受けて持ち帰り、その後、東寺側の度重なる返還要請を拒否しつつ、真然から弟子で初代金剛峰寺座主の寿長、第2代座主の無空へと伝えられた。寛平6年(894年)に金剛峰寺座主となった無空は、三十帖冊子を守るため、高野山と山城国を往還する際も常に携行していたという。延喜16年(916年)6月26日に無空は山城国の円提寺で死去。東寺長者観賢は、なおも言を左右にして冊子を返還しない無空の弟子僧らに業を煮やし、宇多法皇に事の次第を奏上。法皇の譴責を受けた無空の弟子らは、ついに冊子を東寺に返還した。延喜18年(918年)3月、冊子は観賢によって天覧に供され、翌19年(919年)11月、冊子を永く東寺経蔵に安置し東寺一長者に守護させるよう勅命が下された。こうして三十帖冊子事件は解決したが、権威を失った高野山の荒廃を招いたと伝えられる。
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