三十四銀行時代(1899年-1923年)
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「小山健三」の記事における「三十四銀行時代(1899年-1923年)」の解説
国立銀行の営業期限(設立免許後20年)を迎えた第三十四国立銀行(後の三和銀行、現三菱東京UFJ銀行)は、1897年(明治30年)に普通銀行の株式会社三十四銀行に転換。頭取は引き続き岡橋治助が就任したが、経営の近代化のため、2年後の1899年(明治32年)1月に小山健三を第2代頭取として迎えた。これは、当時の日本銀行大阪支店長片岡直輝の推薦によるものであった。 小山は頭取に就任すると直ちに経営方針を明確に打ち出した。当時、投機家の機関銀行的色彩が強かった銀行のあり方を強く批判し、三十四銀行を近代的な商業銀行にする決意を明らかにする。まずは行内の気風の一新を図るため、営業時間中の羽織着用や新聞・雑誌の閲覧を禁止し、新規取引先の開拓を積極的に行う。4月には日本中立銀行(台湾における最初の銀行)と日本共同銀行を合併し規模を拡大する。1900年(明治33年)には、横浜正金銀行(後の東京銀行、現三菱東京UFJ銀行)の香港支店、上海支店とコルレス契約を締結し外国為替業務を開始。 1904年(明治37年)から1905年(明治38年)の日露戦争と相前後して、日本の産業が紡績業などの軽工業から鉄道・電力・鉄鋼などの基幹産業へと広がりを見せる中、1911年(明治44年)に2つの新規事業を開始。一つは、担保付社債信託業務であり、当時この業務を行うのは日本興業銀行、安田銀行などわずか数行であった。もう一つは、資本金を倍額の10百万円にしたのを機に、「事業資金部」を設置し、小工業者向けに長期資金の貸出を開始。この業務は三十四銀行独自のもので、大阪地区の小工業者の育成に大きく貢献した。これらの業務は大正時代に入って大きく発展することとなった。 積極的に規模を拡大し業務範囲を広げながらも、経営は極めて堅実であり、東西の有力銀行の30行以上が被害を受けた「石井定七事件」(1922年/大正11年)においても、関西の有力銀行で全く被害がなかったのは三十四銀行だけであった。 1915年(大正4年)には東京支店、1921年(大正10年)には京橋支店を開設。1918年には当時東京商工会議所会頭であった藤山雷太を監査役に迎え、東京地区における営業活動を強化する。1916年、妻・照子が死去(享年58)。1919年(大正8年)には、全て社外重役だった慣例を破り、本店支配人一瀬粂吉、台北支店支配人北村吉之助、東京支店支配人太田一平の3人を内部から取締役に抜擢。しかし1922年(大正11年)になると健康に衰えが見え始め、翌年1923年(大正12年)頭取在任のまま死去した。
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