三十四銀行時代とは? わかりやすく解説

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三十四銀行時代(1899年-1923年)

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/02/12 02:31 UTC 版)

小山健三」の記事における「三十四銀行時代(1899年-1923年)」の解説

国立銀行営業期限設立免許20年)を迎えた第三十四国立銀行(後の三和銀行、現三菱東京UFJ銀行)は、1897年明治30年)に普通銀行株式会社三十四銀行転換頭取引き続き岡橋治助就任したが、経営近代化のため、2年後1899年明治32年1月小山健三第2代頭取として迎えた。これは、当時日本銀行大阪支店片岡直輝推薦よるものであった小山頭取就任する直ち経営方針明確に打ち出した当時投機家機関銀行色彩強かった銀行あり方強く批判し三十四銀行近代的な商業銀行にする決意明らかにする。まずは行内気風一新を図るため、営業時間中の羽織着用新聞・雑誌閲覧禁止し新規取引先開拓積極的に行う。4月には日本中立銀行台湾における最初銀行)と日本共同銀行合併し規模拡大する1900年明治33年)には、横浜正金銀行(後の東京銀行、現三菱東京UFJ銀行)の香港支店上海支店コルレス契約締結し外国為替業務開始1904年明治37年)から1905年明治38年)の日露戦争相前後して日本産業紡績業などの軽工業から鉄道電力鉄鋼などの基幹産業へと広がり見せる中、1911年明治44年)に2つ新規事業開始一つは、担保付社債信託業務であり、当時この業務を行うのは日本興業銀行安田銀行などわずか数行であったもう一つは、資本金倍額10百万円にしたのを機に、「事業資金部」を設置し小工業者向けに長期資金貸出開始。この業務三十四銀行独自のもので、大阪地区小工業者育成大きく貢献した。これらの業務大正時代入って大きく発展することとなった積極的に規模拡大し業務範囲広げながらも、経営極めて堅実であり、東西の有力銀行30行以上が被害受けた石井定七事件」(1922年大正11年)においても、関西の有力銀行で全く被害がなかったのは三十四銀行だけであった1915年大正4年)には東京支店1921年大正10年)には京橋支店開設1918年には当時東京商工会議所会頭であった藤山雷太監査役迎え東京地区における営業活動強化する1916年、妻・照子死去享年58)。1919年大正8年)には、全て社外重役だった慣例破り本店支配人一瀬粂吉、台北支店支配人北村吉之助、東京支店支配人太田一平の3人を内部から取締役抜擢。しかし1922年大正11年)になると健康に衰え見え始め翌年1923年大正12年頭取在任のまま死去した

※この「三十四銀行時代(1899年-1923年)」の解説は、「小山健三」の解説の一部です。
「三十四銀行時代(1899年-1923年)」を含む「小山健三」の記事については、「小山健三」の概要を参照ください。

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