涼王を称す
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2019/08/20 06:48 UTC 版)
同月、後趙君主石虎は前涼へ軍を侵攻させると、張駿は将軍謝艾に迎撃を命じた。謝艾は出撃すると河西において大戦を繰り広げ、後趙軍を撃破した。 344年1月、謝艾と和驎に南羌討伐を命じた。謝艾らは和闐に進むと、南羌を大破した。 345年12月、西域にある焉耆へ侵攻し、これを降した。 この年、張駿は武威を始めとした11郡をもって涼州とし、世子の張重華を涼州刺史・五官中郎将に任じた。また、興晋を始めとする8郡をもって河州とし、寧戎校尉張瓘を河州刺史に任じた。また、敦煌を始めとする3郡と西域都護・戊己校尉・玉門大護軍の3営をもって沙州とし、西胡校尉楊宣を沙州刺史に任じた。張駿自身は大都督・大将軍・仮涼王・督摂三州と称した。六佾の舞を踊り、豹尾の旗を立て、車服・旌旗は全て君王を模した様式とした。百官を設置すると、官号や府邸もまた君王に擬し、名称だけは区别した。始めて祭酒・郎中・大夫・舎人・謁者などの官を置き、官僚はみな張駿に対して臣を名乗った。
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