ヘルベルト・フォン・ビスマルクとは? わかりやすく解説

Weblio 辞書 > 固有名詞の種類 > 人名 > 政治家 > 海外の政治家 > ドイツ帝国の政治家 > ヘルベルト・フォン・ビスマルクの意味・解説 

ヘルベルト・フォン・ビスマルク

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2025/01/03 02:56 UTC 版)

ヘルベルト・フォン・ビスマルク

ニコラウス・ハインリヒ・フェルディナント・ヘルベルト・フォン・ビスマルク侯爵Nikolaus Heinrich Ferdinand Herbert Fürst von Bismarck1849年12月28日 - 1904年9月18日)は、ドイツの軍人、政治家。

生涯

1849年、オットー・フォン・ビスマルク侯とその妻ヨハンナ・フォン・プットカマーの長男としてプロイセン王国ベルリンで生まれた。姉にマリー、弟にヴィルヘルムがいる。

1870年から1871年普仏戦争には騎兵として参加し、マーズ=ラ=トゥールの戦いで左足に銃創を負った。

1873年、父オットーの勧めで外務省に入省する。はじめオットーの私設秘書となり、後に1882年にロンドン大使館、1884年にはサンクトペテルブルクデン・ハーグの大使館に赴任した。1885年に外務次官、その翌年には外相となった。1890年ヴィルヘルム2世が帝国宰相の父を解任した2日後には、ヘルベルトも外相を辞任した。1893年帝国党の帝国議会議員に選出された。

1881年、ベルリン社交界の花形として名高いエリーザベト・ツー・カロラート=ボイテンドイツ語版侯爵夫人との結婚を望んだが、侯爵夫人がカトリック教徒の離婚経験者で、ヘルベルトより10歳も年上であったことから、オットーは許そうとしなかった。エリザベートの実家の家族中にビスマルクの政敵が多かったという点も結婚を認めさせない要因となった。オットーは涙ながらに長子相続権を剥奪すると脅して、エリーザベトとの結婚を諦めさせた。この苦い経験から、ヘルベルトはアルコール漬けになった。外務省の窓から外に銃を5発撃ったことがあり、その際誰かにあたったかもしれないと言われたヘルベルトは、「役人は常にイライラと不安に苛まれ続けないといけない。それが終わるのは仕事を辞める時だ」と答えた。1892年6月21日魚雷の開発者として知られるロバート・ホワイトヘッドの孫娘マーガレット・ホヨス伯爵令嬢とウィーンで結婚した。

ボンの学生組合コール・ボルシア(Corps Borussia Bonn)のメンバーであった。

1898年7月30日、ベッドサイドで父の最期を看取った。

子女





固有名詞の分類


英和和英テキスト翻訳>> Weblio翻訳
英語⇒日本語日本語⇒英語
  

辞書ショートカット

すべての辞書の索引

「ヘルベルト・フォン・ビスマルク」の関連用語

ヘルベルト・フォン・ビスマルクのお隣キーワード
検索ランキング

   

英語⇒日本語
日本語⇒英語
   



ヘルベルト・フォン・ビスマルクのページの著作権
Weblio 辞書 情報提供元は 参加元一覧 にて確認できます。

   
ウィキペディアウィキペディア
All text is available under the terms of the GNU Free Documentation License.
この記事は、ウィキペディアのヘルベルト・フォン・ビスマルク (改訂履歴)の記事を複製、再配布したものにあたり、GNU Free Documentation Licenseというライセンスの下で提供されています。 Weblio辞書に掲載されているウィキペディアの記事も、全てGNU Free Documentation Licenseの元に提供されております。

©2025 GRAS Group, Inc.RSS