ブルガリア・マケドニア宣教
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「オフリドのクリメント」の記事における「ブルガリア・マケドニア宣教」の解説
クリメントがコンスタンティノープルに送られたころ、ブルガリア帝国のボリス1世は、キュリロスとメトディオス兄弟のようにスラヴ語によって情熱的に宣教を行う人材を切望していた。モラヴィアから離散したメトディオスの弟子たちはブルガリアに迎えられ、その中にはクリメントも含まれていた。こうしてブルガリアはスラヴ語典礼(奉神礼)を採用することとなった。クリメントは南西マケドニアに位置するクトゥミチェビツァ(Кутмичевица)に派遣され、のちにオフリド主教となった。 クリメントはブルガリアにおいて教育者として精力的に働き、多くの生徒にスラヴ語の読み書きを教えた。その数は一説には後に聖職者となった者だけでも3500人を下らないだろうと言われている。クリメントは生涯かけてスラヴ人に聖職者を組織的に供給し続けた。またクリメントは、ギリシャ語文献のスラヴ語への翻訳のみならず、スラヴ語による著述活動をも行い、スラヴ語のキリスト教著作における最初期の作者となった。 晩年には体の衰えとともに主教職を辞することをシメオン1世に願い出たが、慰留を受けて職にとどまった。その後しばらくして、オフリド主教座から退くと、自身がオフリドに建立した聖パンテレイモン修道院に引退した。ここでも翻訳・著述活動を続け、916年に死去した。遺体は不朽体として聖パンテレイモン修道院に埋葬された。多くの著作がロシア語に翻訳され、篤信の正教徒が書写して読んだ。
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