チャコ戦争の時代
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「パラグアイの歴史」の記事における「チャコ戦争の時代」の解説
「チャコ戦争」も参照 1932年6月15日にボリビア軍はパラグアイのカルロス・アントニオ・ロペス要塞を攻略し、この攻撃によって両国は宣戦布告なき戦争状態に突入した。7月にパラグアイ軍はカルロス・アントニオ・ロペス要塞を奪還、続いて同年9月にボケロン要塞を攻略した。翌1933年5月10日にパラグアイはボリビアに宣戦布告した後、ドイツ人軍事顧問のハンス・クント率いるボリビア軍の総攻撃をホセ・フェリクス・エスティガリビア中佐が頓挫させるなど戦局はパラグアイ優位に進み、1933年、1934年のパラグアイの反攻を経て1935年1月には戦線はボリビア領内に移行した。しかし、ボリビア軍の頑強な抵抗が続き、財政的にも戦争の継続が困難となったため、1935年6月にアルゼンチンの仲介で休戦協定が結ばれた。 チャコ戦争によるパラグアイの死者は36,000人に達したのにも拘らず、ブエノスアイレスで締結された休戦協定はパラグアイにとって必ずしも満足行くものではなかったため、前線から帰還した軍部の将校達は公然と政府に攻撃を加えた。先手を制したエウゼビオ・アジャラ(スペイン語版)大統領は将校の指導者だったラファエル・フランコ(スペイン語版)大佐を追放したが、このことは逆に軍内部での怒りを爆発させる結果となったため、1936年2月17日のクーデターでアジャラ政権は崩壊し、亡命先のアルゼンチンから帰国したフランコが新たな大統領に就任した。文民政府への批判を社会改革に繋げたフランコは、親ファシズム的な傾向からの農地改革の推進や労働者の保護、ナショナリズムの昂揚のためのソラーノ・ロペスの名誉回復など、寡頭支配層の基盤を揺るがす急進的改革を行ったため、翌1937年8月の軍保守派のクーデターによって失脚したが、フランコの社会改革の理念は二月党によって受け継がれた。パラグアイとボリビア両国の正式な和平条約の締結は1938年7月21日となり、パラグアイは係争地のチャコ地方全体の領有権を獲得することに成功した。フランコの失脚後は、ホセ・フェリクス・エスティガリビア(任:1937-1940)とイヒニオ・モリニゴ(スペイン語版)(任:1940-1947)の二人に将軍によって軍政が敷かれた。第二次世界大戦が勃発した後、モリニゴはアメリカ合衆国との協調を軸とした外交と、社会保障制度の拡充を軸にした内政で内外の支持を獲得する一方で、政党の存在を弾圧するなどの独裁的な側面を併せ持っていた。
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