ケンタッキー州初の10億ドル予算
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/11/01 22:35 UTC 版)
「バート・コームズ」の記事における「ケンタッキー州初の10億ドル予算」の解説
コームズは選挙戦中に教育、高規格道路、公園、工業、空港などの予算増を含み、進歩主義綱領を提唱していた。選挙から間もなく、退役兵に払うボーナスのために3%の消費税を承認されていたが、ボーナスについては1%あれば足りていた。コームズは他の優先事項にも当てるために大きな税率を求めていた。消費税が認められた結果として、ケンタッキー州では初の10億ドル予算を采配することになった。ある研究では、ケンタッキー州で1957年から1962年の間に一人当たり支出を倍にしており、他のどの州よりも速く割当額を成長させた。コームズは税を遣ったプロジェクトの完成したそれぞれの時に大掛かりな宣伝を行い、開業に当たっての演説で消費税を遣ってそのプロジェクトを可能にしたと宣言した。 1960年、ケンタッキー州は国内でも落ちこぼれ率の高い州であり、教室が1つの学校の数では、アーカンソー州に次いで第2位だった。州内の高校を卒業した者でカレッジに進学する者は半分に満たなかった。州内で教育された教師の多くは、他の州なら得られる高い給与を求めた。1960年に州議会で成立したコームズの2年間予算は、新しい消費税から得られた金を50%だけ教育予算を増やすために遣われ、州立コミュニティ・カレッジ体系(現在のケンタッキー州コミュニティ・工科カレッジ体系)設立に遣った。無料教科書に300万ドル以上を増やし、職業教育のために別に200万ドルを割り当てた。州立大学の新しい建物のために500万ドル以上、ケンタッキー大学にあって、コームズの政敵の名前をつけたアルバート・B・チャンドラー病院の完成のために1,050万ドルが遣われた。 コームズが知事になったときに、州道はお粗末な状態にあった。自動車安全基金が、州内の国道の3分の2は現行交通需要に対して標準以下にあると決めつけた。さらに州内主要都市の通りの20%は不適切であり、55%は交通量の増加によってすぐに不適になり、二級道路の半分は近代的工業輸送に不適であると指摘した。この問題に対処するために、コームズは高規格道路の予算を増やすための債券1億ドルを発行し、道路問題の対応を監視する州高規格道路コミッショナーにアール・クレメンツを指名した。新道の1つにマウンテン・パークウェイがあり、コームズの生まれた東ケンタッキーと中部ケンタッキーを結んだ。後にコームズを称えて、バート・T・コームズ・マウンテン・パークウェイと改名された。コームズの予算で手厚く資金を与えられたことにより、ケンタッキー州は周辺のバージニア州やテネシー州よりも早く州間高速道路体系の州内部分を完成させた。 コームズは州立公園のためにも1,000万ドル債券の発行について承認を得た。それまでの州立公園では宿泊所がお粗末であり、娯楽施設も少なかった。コームズはこの債券発行に100万ドルの歳入債券を組み合わせ、26の州立公園全部に大きな改修を行った。民間所有の観光施設が公園周辺に出現するというコームズの夢は実現しなかったが、州外からケンタッキー州への観光はコームズ政権の間に2倍以上となり、約60%が州立公園への観光客、53%が公園への宿泊を伴う観光となった。ジャーナリストのジョン・エド・ピアースは、ケンタッキー州生まれが観光シーズンに公園内での予約が取れないと苦情を言い始めたこと、州外からの観光客を制限することやケンタッキー州民に有利な予約の仕組みを要求していることを報告したが、これら苦情には何の対応も行われなかった。 1961年4月10日、コームズは州知事の緊急予算の中から5万ドルを、集会議事堂前の芝生に花時計を建設する資金に充てさせた。コームズは以前にスコットランドのエディンバラで花時計を見たことがあり、議事堂敷地に彩りを与えられると考えた。その後の州知事選挙の中で、ハッピー・チャンドラーがこの花時計を取り上げ、「そうさね、彼らはフランクフォートでは2時半とは言わなくなった。今では2ペチュニアとシロバナヨウシュチョウセンアサガオだと言っている」と冷笑的に言っていた。しかし、チャンドラーのような見方は時間と共に少数派になった。ジョン・エド・ピアースは、この花時計が州内でもさらにフランクフォートでも話題の種になり、観光客を引きつけるものとなったと報告した。
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