知事としての2期目と死
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/08/06 21:37 UTC 版)
「ジェイムズ・マクリアリー」の記事における「知事としての2期目と死」の解説
ベッカムが上院議員の席からマクリアリーを追い出したにも拘わらず、1911年には年配のマクリアリーが再度州知事の党公認候補になるのをベッカムが支持し、同盟関係が復活した。マクリアリーが知事候補指名を得るために和解を求めたのか、ベッカムが知事としてのマクリアリーの行動を制御できると考え修復をしたのか、今では不明である。民主党予備選挙で、マクリアリーは25,000票差でウィリアム・アダムズを破って候補指名された。 マクリアリーに対抗するために、共和党はエドワード・C・オリア判事を指名してきた。2人の候補者の立ち位置にはそれほどの違いが無かった。どちらも上院議員の直接選挙、無党派の裁判官、公共事業委員会の創設など、進歩的改革を支持していた。マクリアリーはアルコール飲料に関する姿勢を変えて、ベッカムの禁酒法推進の立場に合わせていた。これも共和党の姿勢と同じだった。オリアは、民主党が既に党の提唱する綱領にある改革を法制化してしまうべきだったと主張したが、マクリアリー自身を攻撃する唯一の捉え所と言えば、マクリアリーがベッカムとその同身者の傀儡である可能性があるということだった。 マクリアリーは、オリアが予備選挙ではなく党の指名大会で指名されたが、オリア自身は予備選挙を支持していると主張したことを指摘した。また知事候補として出馬していながら、判事としての給与を受け取り続けているとも批判した。マクリアリーは共和党の「暗殺、流血沙汰、法の軽視」の記録と呼ぶものを挙げ、1899年州知事選挙後にウィリアム・ゴーベルを暗殺したことを仄めかした。ゴーベル暗殺の従犯者として3度有罪になったケイレブ・パワーズは共和党員知事オーガスタス・ウィルソンから恩赦を受けており、その後アメリカ合衆国下院議員に選出されていた。さらに共和党員大統領ウィリアム・タフトの関税政策も攻撃した。選挙ではマクリアリーが226,771票を集め、対するオリアは195,435票に留まり、マクリアリーが快勝した。このときアメリカ社会党の候補者ウォルター・ランファージークが8,718票(総投票数の2%)を得るなど、少数党の候補者も票を得た。
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