イギリスの降伏とシャーリーの帰国とは? わかりやすく解説

Weblio 辞書 > 辞書・百科事典 > ウィキペディア小見出し辞書 > イギリスの降伏とシャーリーの帰国の意味・解説 

イギリスの降伏とシャーリーの帰国

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/01/09 03:15 UTC 版)

オスウィーゴ砦の戦い (1756年)」の記事における「イギリスの降伏とシャーリーの帰国」の解説

イギリス軍は、人夫造船技師女性子供を含む1,700人が降伏したオスウィーゴ砦ヌーベルフランス民兵インディアン解放され、皆が中に駆けこんで略奪始めラム酒飲んでへべれけになった。この乱痴気騒ぎただなかで、逃げ出そうとしたイギリス兵が、酔っ払ったフランス兵インディアンから、斧で切りつけられ、殺された。将軍モンカルムは、この行為驚きあきれた結局それ以上殺戮食い止められ、その一方でこうも諭した。「今、我々は、国王陛下から、8,000から1万リーブルもの戦費支出しいただいているのだぞ」。モンカルムその後フランス兵持ち出せなかった物資を、建設中の船共々壊してしまうように命じた。それからすべてのイギリス人を、捕虜含めてモントリオールに向かわせた。 8月12日、ルードゥーンがついに、第44歩兵連隊英語版)から、オスウィーゴに向かうブラッドストリートバトー補強要員分遣した。この部隊がオネイダ・キャリーに着いた時、オスウィーゴ砦陥落知ったブラッドストリート部隊は、オネイダ・キャリーの砦をすべて壊してからジャーマン・フラッツに退いた。ルードゥーンはブラッドストリートに、そこに留まって、次のフランスの進軍阻止するよう命じた。ルードゥーンはその後か月かの間、シャーリー骨折り無駄にし、オスウィーゴ砦陥落を、この前任者のせいにし続けたシャーリーその後オスウィーゴ陥落査問会に出席するためイギリス戻ったのち、1758年バハマの総督就任した

※この「イギリスの降伏とシャーリーの帰国」の解説は、「オスウィーゴ砦の戦い (1756年)」の解説の一部です。
「イギリスの降伏とシャーリーの帰国」を含む「オスウィーゴ砦の戦い (1756年)」の記事については、「オスウィーゴ砦の戦い (1756年)」の概要を参照ください。

ウィキペディア小見出し辞書の「イギリスの降伏とシャーリーの帰国」の項目はプログラムで機械的に意味や本文を生成しているため、不適切な項目が含まれていることもあります。ご了承くださいませ。 お問い合わせ



英和和英テキスト翻訳>> Weblio翻訳
英語⇒日本語日本語⇒英語
  

辞書ショートカット

すべての辞書の索引

「イギリスの降伏とシャーリーの帰国」の関連用語

イギリスの降伏とシャーリーの帰国のお隣キーワード
検索ランキング

   

英語⇒日本語
日本語⇒英語
   



イギリスの降伏とシャーリーの帰国のページの著作権
Weblio 辞書 情報提供元は 参加元一覧 にて確認できます。

   
ウィキペディアウィキペディア
Text is available under GNU Free Documentation License (GFDL).
Weblio辞書に掲載されている「ウィキペディア小見出し辞書」の記事は、Wikipediaのオスウィーゴ砦の戦い (1756年) (改訂履歴)の記事を複製、再配布したものにあたり、GNU Free Documentation Licenseというライセンスの下で提供されています。

©2025 GRAS Group, Inc.RSS