イギリスの降伏
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2018/05/11 18:47 UTC 版)
9月9日、マドラス総督ニコラス・モース(英語版)は平和を求めた。意外にも、ラ・ブルドンネが提示した条件は寛大であった。フランスは要塞と倉庫を接収するが、残りはイギリスが保持する、というものだった。彼の上司デュプレクスはこの寛大な条件に反対で、マドラス併合を主張したがラ・ブルドンネに押し通された。この平和はその後1ヶ月の間維持された。 しかし、10月に事態が急変した。嵐によりラ・ブルドンネは艦隊の3分の1を失いながらのポンディシェリーへの撤退を余儀なくされたのである。マドラスの占領は強硬派のデュプレクスに任され、彼はすぐさまにマドラス全体を占領・略奪して、イギリス軍の一部を投獄した。続いてセント・ジョージ要塞破壊の準備をしはじめた。 このとき、投獄されたイギリス軍の一人がロバート・クライヴである。イギリス東インド会社の秘書であった彼はほか数人と一緒にインド人に扮して、牢獄から脱出した。外に出ると、現地の(本物の)インド人に知らない言語で話しかけられた彼らはバレる前に大急ぎで脱出し、3日後にマドラスから50マイルのセント・ジョージ要塞に辿り着いた。そこでマドラス陥落の報せを届けたのであった。この武勇伝でクライヴは初めて名をあげた。
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