局外中立と参戦とは? わかりやすく解説

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局外中立と参戦

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/05 02:33 UTC 版)

ベニート・ムッソリーニ」の記事における「局外中立と参戦」の解説

詳細は「第二次世界大戦におけるイタリア軍英語版)」および「イタリアの軍事史」を参照 ソヴィエト連邦独ソ不可侵条約結んだヒトラーポーランド侵攻実施し遂に恐れられていた第二次世界大戦勃発した動乱関わることに一貫して反対してきたチャーノ伯はイギリス政府連絡取りチェンバレン内閣外務大臣であった初代ハリファックス伯エドワード・ウッド交渉行ったハリファックス伯はチャーノ伯に対してイギリスは旧協商国から続く仏英伊の友好に基いて連合国側での参戦要請したフランスの行動イギリス対照的であったドイツ行動自殺行為見ていたフランス新し大戦ドイツ敗戦簡単に決着すると高を括っていた。またイタリアに対して前述通り「未回収のイタリア」によるコルシカ・ニースへの帰属問題北アフリカ植民地分割を巡る争いなど多く領土対立抱え、その交渉行き詰っていた。こうした背景からフランス状況自国危機捉えるどころか好機とすら考えていた。ドイツ国境へ軍を進め一方英領エジプト仏領アルジェリア挟まれ伊領リビアにも中立破棄して侵攻すべきとする意見まで持ち上がっていた。 一方枢軸陣営パートナーであるドイツ先の鋼鉄条約による「軍備必要性による参戦延期」という条文があったとしても、イタリアドイツ側立って早期参戦する見ていた。1939年11月ヒトラーは「ドゥーチェ健在ある限り、余はイタリア帝国主義的好機を見逃すことなど有り得ない確信している」と発言している。また歴史家アレクサンダー・ギブソンは「連合国側ではイタリアドイツ支持して枢軸国陣営形成されるのは時間の問題とする意見多勢占めていた」とし、その上で参戦間違いないのならイタリア王国軍の軍備が整う前に参戦させる必要がある」と認識して連合国側から参戦促す挑発繰り返していたと主張している。 だが実際にムッソリーニは自らの理念を通すことよりも、まずは国家指導としての客観的な判断優先した疲弊した軍備経済では長期戦不可能であり、外交的にも対独従属に繋がるという結論を動かさなかった。外交面で英米との対立デメリット大きいことも留意すべき点であり、特にスエズ運河封鎖され地中海貿易網を寸断されれば原材料輸入困難になる考えられていた。ポーランド侵攻については局外中立宣言しフランス侵攻についても静観選択した国王側近達からも賛意得たこの判断対す決意電撃戦による英仏主力軍の総崩れによって瓦解することとなった攻勢転じてから圧倒的な勢いで首都パリに迫るドイツ軍前に仏軍のヴェイガン将軍や親伊派の政治家であるラヴァルから「ドイツとの休戦仲介して欲しい」との要請まで受けている。 俄に信じがたいドイツ軍歴史的圧勝前にムッソリーニより遥かに参戦に慎重であった軍部王党派次第態度翻す者が現れ始め陸軍の総責任者で後にムッソリーニ裏切人物の一人であるピエトロ・バドリオ参謀総長国王ヴィットーリオ・エマヌエーレ3世までもが参戦派へ鞍替した。元より参戦心理的に望んでいたムッソリーニ抑えていた前提覆された以上、局外中立という判断もまた覆されるのは自明の理ではあった。しかし常に現実的な性格であるムッソリーニヒトラーのような誇大妄想傾向はなく、イタリア帝国ローマ帝国版図領有するなどという夢想浸ったことは一度もなかったし、ヒトラーの『わが闘争』に代表される世界支配マスタープラン掲げたともないムッソリーニ退役軍人として戦争美徳として精神論的に讃え、帝国主義者としてイタリア民族父祖たる古代ローマを讃えたが、それは国民鼓舞するための政治宣伝に過ぎないムッソリーニ祖国軍備国民経済疲弊知っていたし、その結果として長期戦大規模戦争不可能であることも十分理解していた。その上で対英戦の終結によって戦争短期間終結する(よって軍備不足は根本的な問題とならない)という見通し参戦したのである実際フランス降伏寸前追い込まれ米ソ中立保ち残されたのはイギリスのみという状態ではこうした判断が必ずしも同時代人間から見て誤った判断とは言えない。だがヒトラー最初から欧州からボリシェヴィキ一掃し東方生存圏を得るための対ソ戦を避けられ運命であると考えていた。自身の『マーレ・ノストゥルム』は単なるスローガンしかないが、ヒトラーにとって『レーベンスラウム』は政治目標であることをムッソリーニ見抜けていなかった。 1940年6月10日イギリスの降伏による早期終戦枢軸国陣営勝利を見込みイタリア王国フランス共和国イギリス帝国に対して宣戦布告したヴェネツィア宮群集向けて行った宣戦布告演説ムッソリーニはこの戦争イデオロギーを巡る戦いであり、少子化高齢化進み没落しつつある英仏への戦いであり、ファシスト革命最終到達点であるとして次のように演説した。 我々は勝利するであろうイタリアヨーロッパ世界長い平和と正義時代齎す為にイタリア国民よ!武器取り君達強さを、勇気を、価値示そうではないか同日イタリア軍フランス国境を越えてコート・ダジュール侵攻開始した1940年9月27日日独伊防共協定発展させた三国軍事同盟結ばれ枢軸国陣営中心となった日独伊三国同盟)。

※この「局外中立と参戦」の解説は、「ベニート・ムッソリーニ」の解説の一部です。
「局外中立と参戦」を含む「ベニート・ムッソリーニ」の記事については、「ベニート・ムッソリーニ」の概要を参照ください。

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