局外中立と参戦
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「ベニート・ムッソリーニ」の記事における「局外中立と参戦」の解説
詳細は「第二次世界大戦におけるイタリア軍(英語版)」および「イタリアの軍事史」を参照 ソヴィエト連邦と独ソ不可侵条約を結んだヒトラーがポーランド侵攻を実施し、遂に恐れられていた第二次世界大戦が勃発した。動乱に関わることに一貫して反対してきたチャーノ伯はイギリス政府と連絡を取り、チェンバレン内閣の外務大臣であった初代ハリファックス伯エドワード・ウッドと交渉を行った。ハリファックス伯はチャーノ伯に対して、イギリスは旧協商国から続く仏英伊の友好に基いて連合国側での参戦を要請した。 フランスの行動はイギリスと対照的であった。ドイツの行動を自殺行為と見ていたフランスは新しい大戦がドイツ敗戦で簡単に決着すると高を括っていた。またイタリアに対しても前述の通り「未回収のイタリア」によるコルシカ・ニースへの帰属問題や北アフリカの植民地分割を巡る争いなど多くの領土対立を抱え、その交渉も行き詰っていた。こうした背景からフランスは状況を自国の危機と捉えるどころか好機とすら考えていた。ドイツ国境へ軍を進める一方、英領エジプトと仏領アルジェリアに挟まれた伊領リビアにも中立を破棄して侵攻すべきとする意見まで持ち上がっていた。 一方、枢軸陣営のパートナーであるドイツは先の鋼鉄条約による「軍備の必要性による参戦延期」という条文があったとしても、イタリアがドイツ側に立って早期参戦すると見ていた。1939年11月、ヒトラーは「ドゥーチェが健在である限り、余はイタリアが帝国主義的な好機を見逃すことなど有り得ないと確信している」と発言している。また歴史家のアレクサンダー・ギブソンは「連合国側ではイタリアがドイツを支持して枢軸国陣営が形成されるのは時間の問題とする意見が多勢を占めていた」とし、その上で「参戦が間違いないのならイタリア王国軍の軍備が整う前に参戦させる必要がある」と認識して、連合国の側から参戦を促す挑発を繰り返していたと主張している。 だが実際にはムッソリーニは自らの理念を通すことよりも、まずは国家指導者としての客観的な判断を優先した。疲弊した軍備と経済では長期戦は不可能であり、外交的にも対独従属に繋がるという結論を動かさなかった。外交面で英米との対立にデメリットが大きいことも留意すべき点であり、特にスエズ運河を封鎖されて地中海貿易網を寸断されれば原材料輸入は困難になると考えられていた。ポーランド侵攻については局外中立を宣言し、フランス侵攻についても静観を選択した。国王や側近達からも賛意を得たこの判断に対する決意は電撃戦による英仏主力軍の総崩れによって瓦解することとなった。攻勢に転じてから圧倒的な勢いで首都パリに迫るドイツ軍を前に、仏軍のヴェイガン将軍や親伊派の政治家であるラヴァルから「ドイツとの休戦を仲介して欲しい」との要請まで受けている。 俄には信じがたいドイツ軍の歴史的圧勝を前にムッソリーニより遥かに参戦に慎重であった軍部や王党派は次第に態度を翻す者が現れ始め、陸軍の総責任者で後にムッソリーニを裏切る人物の一人であるピエトロ・バドリオ参謀総長や国王ヴィットーリオ・エマヌエーレ3世までもが参戦派へ鞍替した。元より参戦を心理的に望んでいたムッソリーニを抑えていた前提が覆された以上、局外中立という判断もまた覆されるのは自明の理ではあった。しかし常に現実的な性格であるムッソリーニはヒトラーのような誇大妄想の傾向はなく、イタリア帝国がローマ帝国の版図を領有するなどという夢想に浸ったことは一度もなかったし、ヒトラーの『わが闘争』に代表される世界支配のマスタープランを掲げたこともない。 ムッソリーニは退役軍人として戦争を美徳として精神論的に讃え、帝国主義者としてイタリア民族の父祖たる古代ローマを讃えたが、それは国民を鼓舞するための政治宣伝に過ぎない。ムッソリーニは祖国の軍備や国民経済の疲弊を知っていたし、その結果として長期戦や大規模戦争が不可能であることも十分理解していた。その上で対英戦の終結によって戦争が短期間で終結する(よって軍備不足は根本的な問題とならない)という見通しで参戦したのである。実際、フランスが降伏寸前に追い込まれ、米ソは中立を保ち、残されたのはイギリスのみという状態ではこうした判断が必ずしも同時代の人間から見て誤った判断とは言えない。だがヒトラーは最初から欧州からボリシェヴィキを一掃し、東方生存圏を得るための対ソ戦を避けられぬ運命であると考えていた。自身の『マーレ・ノストゥルム』は単なるスローガンでしかないが、ヒトラーにとって『レーベンスラウム』は政治目標であることをムッソリーニは見抜けていなかった。 1940年6月10日、イギリスの降伏による早期の終戦と枢軸国陣営の勝利を見込み、イタリア王国はフランス共和国とイギリス帝国に対して宣戦を布告した。ヴェネツィア宮で群集に向けて行った宣戦布告演説でムッソリーニはこの戦争はイデオロギーを巡る戦いであり、少子化と高齢化が進み没落しつつある英仏への戦いであり、ファシスト革命の最終到達点であるとして次のように演説した。 我々は勝利するであろう。イタリアとヨーロッパと世界に長い平和と正義の時代を齎す為に!イタリア国民よ!武器を取り、君達の強さを、勇気を、価値を示そうではないか! 同日、イタリア軍はフランス国境を越えてコート・ダジュールに侵攻を開始した。1940年9月27日、日独伊防共協定を発展させた三国軍事同盟が結ばれ、枢軸国陣営の中心となった(日独伊三国同盟)。
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