イギリスの遠征計画
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/07/21 15:20 UTC 版)
「タイコンデロガの戦い (1759年)」の記事における「イギリスの遠征計画」の解説
1759年の北アメリカでの軍事行動に向けて、イギリスの首相ウィリアム・ピットは、ルイブールの戦いで勝利を収めたアマーストに、陸軍を、シャンプラン湖の北に航行させ、ヌーベルフランスに向かわせるように命令を出していた。その一方、ルイブールでアマーストのもとで戦って名を挙げた、ジェームズ・ウルフが率いる第二軍は、セントローレンス川を越えたケベックでは標的にされていた。このために、13植民地の総督すべてに、2万の民兵を育成するようにと言う指示が出ていた。 約8,000の民兵が訓練を受け、南はペンシルバニアやニュージャージーといった地域から、オールバニに送られた。ニューヨークとニュージャージーからは1,000人、マサチューセッツ湾植民地では6,500人を召集し、そのうち3,500人がオールバニに向かった。それ以外はケベックのウルフの軍や、ノバスコシアの軍に分遣された。 残った兵士は、ペンシルバニアと、マサチューセッツ湾植民地以外のニューイングランド植民地の出身だった。ペンシルバニアでは、クエーカー教徒が兵を送るのに難色を示したため、アマーストは彼らに、民兵を育成しなければ、ペンシルバニアの西にある要塞から兵を引き揚げさせると脅し、納得させた。この要塞は、先住民とフランス軍の襲撃に備えて、イギリスの支配下にあるものだった。 アマーストは、サー・ウィリアム・ジョンソンから、イロコイ連邦が、フランスの要塞からフランス軍を追い出す準備にかかったと聞かされ、フォート・ナイアガラ攻略のために遠征隊を派遣することにした 。5月に、オールバニから、西の入植地出身の兵2,000人をジョン・プリドー准将指揮下の3,000人部隊に同行させ、あとの植民地兵は自分の指揮下に置いて、フォート・エドワードへ北上した。植民地兵は主にマサチューセッツ、ニュージャージー、そしてコネチカットの兵で、フォート・エドワードで正規兵と合流して総勢6000人となった。正規兵の内訳は、ロイヤル・ハイランダーズ(en:Black Watch)2,000人、第17歩兵連隊(en:Royal Leicestershire Regiment)、第27歩兵連隊(en:27th (Inniskilling) Regiment of Foot)、第53歩兵連隊(en:53rd (Shropshire) Regiment of Foot)、第60歩兵連隊大隊(en:King's Royal Rifle Corps)の各部隊から同じく2,000人、そして王立砲兵隊から100人(en:Royal Artillery)、ロジャーズ・レンジャーズから700人、トマス・ゲイジ指揮下の軽歩兵隊から500人である。
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