英仏抗争の白熱化
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2018/03/31 04:19 UTC 版)
「ジュモンヴィルグレンの戦い」の記事における「英仏抗争の白熱化」の解説
8月に、イギリス本国にこの2つの戦闘についての報告があり、ニューカッスル公爵トマス・ペラム=ホールズ政権は、数か月に及ぶ協議ののち、翌年に陸軍を派遣して、フランスを撃退することにした。遠征隊長には少将のエドワード・ブラドックが選ばれたが、そのブラドックはモノンガヘラの戦いで敗北を喫し、フランスは1758年までデュケーヌ砦を支配下に置いた。しかし最終的にジョン・フォーブズがその砦をものにした。 イギリスの遠征計画は、ブラドックが出発する前にフランスに筒抜けになっており、フランス国王ルイ15世は、1755年にもっと大規模な部隊をヌーベルフランスに派遣した。彼らの到着は、ブラドックの敗戦には間に合わなかったものの、その後何年か、この部隊のおかげで、フランスは一連の勝利を得ることができた。イギリスは第二次攻撃として、提督エドワード・ボスコーエンに、1755年6月8日の海戦で、フランス軍が乗った軍艦アルシドを攻撃させ、艦を拿捕させた。北アメリカの陸でも海でも、軍事行動はエスカレートし、1756年春に両国は交戦状態に入った。それは、七年戦争が正式に始まったということであった。
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