英仏抗争の始まり
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/03 07:36 UTC 版)
「近世における世界の一体化」の記事における「英仏抗争の始まり」の解説
詳細は「第2次百年戦争」を参照 30年余におよぶユグノー戦争(1562年-1598年)はフランス国内を荒廃させたが、16世紀末にアンリ4世が即位してブルボン朝がはじまり、ナントの勅令を発布して国内の宗教対立に終止符を打った。1608年にはケベック市が建設されてカナダ植民の拠点となった。次のルイ13世は三十年戦争に介入、フランスはカトリック国でありながら新教側に立って参戦した。この戦争によって、ブルボン家にとっては宿敵だったオーストリア・スペイン両ハプスブルク家に対して優位性を獲得した。なお、1642年にはカナダにモントリオール市が建設されている。 フランス最後の貴族の反乱となったフロンドの乱(1648年-1653年)が平定されたのちの1661年には太陽王ルイ14世(位1643年-1715年)の親政が始まり、同年ヴェルサイユ宮殿の造営が開始され、貴族をここに居住させている。フランスの絶対王政は、貴族を王の経済的保護の下に置くことで政治的権力を奪い、中央集権体制の実現を図っていった。そして、豪奢な宮廷生活、官僚制の整備、ヨーロッパ最大の常備軍の維持のため、ジャン=バティスト・コルベールらによる重商主義政策が採用された。 「朕は国家なり」の言葉で知られるルイ14世は「領土の拡大は最も気持ちの良い仕事である」と豪語し、自然国境説にもとづいてたび重なる侵略戦争を行った。ヨーロッパにおける南ネーデルラント継承戦争(1667年-1668年)、オランダ戦争(オランダ侵略戦争、1672年-1678年)そしてファルツ継承戦争(1688年-1697年)である。 一方東洋進出においても、1604年に設立されたがすぐに衰退したフランス東インド会社をコルベールが1664年に再組織して本格化し、インドではシャンデルナゴル(1673年)やポンディシェリ(1674年)を根拠地としてイギリスに対抗しようとした。また、アメリカでは、1659年に西インド諸島のサン=ドマング(ハイチ)に進出し、サトウキビのプランテーション経営を行った。1682年にはミシシッピ川流域一帯のフランス領ルイジアナへの植民が始まった。「ルイジアナ」の地名は、太陽王の名にちなんでフランス人ラ・サールによって命名されたものである。フランスは、カナダとルイジアナではおもに毛皮貿易に従事し、カトリック布教も行った。フランス東インド会社は1742年以降はデュプレクス総督の下でインドの支配権をめぐりイギリスと争った。 イングランドでは、王政復古後もチャールズ2世がカトリック官僚を採用するなどカトリックの復活を企図し、極端な反動政治を行ったため、議会は審査律(1673年)や人身保護律(1679年)を発してそれを牽制した。さらに次のジェームズ2世も同様の専制政治を行ったため、ついに議会は1688年王を廃位し、プロテスタント信者で王家の血筋にあたるオランダ総督ウィレム(ウィリアム3世)とメアリ(メアリ2世)の夫婦をむかえて「権利の宣言」を認めさせた。この政変は、流血の惨事なくおこなわれたことから名誉革命と呼ばれている。ウィリアムとメアリは翌年、権利の宣言を「権利章典」として発布し、イングランドはこれを機に立憲君主国へと変貌を遂げた。イングランドで発達した議会制度と法治主義は、後世、諸国の模範とするところとなった。 1688年、ルイ14世がドイツのファルツ選帝侯の領土に対し、王弟オルレアン公の妃の継承権を主張して戦争をおこした(ファルツ継承戦争)のに対しイングランド、スペイン、オランダ、ドイツの皇帝・諸侯はアウクスブルク同盟を結んでフランスのファルツ継承を阻止した。北米では英王ウィリアム3世にちなんでウィリアム王戦争とも呼ばれるこの戦いは、「第2次百年戦争」と呼ばれる長い英仏抗争のさきがけとなった。
※この「英仏抗争の始まり」の解説は、「近世における世界の一体化」の解説の一部です。
「英仏抗争の始まり」を含む「近世における世界の一体化」の記事については、「近世における世界の一体化」の概要を参照ください。
- 英仏抗争の始まりのページへのリンク