バージニア植民地の行動
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2018/03/31 04:19 UTC 版)
「ジュモンヴィルグレンの戦い」の記事における「バージニア植民地の行動」の解説
1754年3月、ディンウィディーはワシントンに、オハイオに戻るように言い、こう命じた。「防御に徹するように、しかし、如何なる者であれ、工事に邪魔が入るような動きを見せたり、我々の植民地に割って入るような者がいれば、その者たちをすべて制止するように。しかし彼らが刃向かってくれば、捕虜にするなり、殺すなり、あるいは滅ぼすなりするように」歴史家のフレッド・アンダーソンは、ディンウィディーのこの命令に関して、「戦争を呼び込んでいるようなものだ」として、本人は何ら知識もなく、イギリス本国の政府の指示もないままに命令が発せられていると書いている。ワシントンは、できるだけ多くの物資と有給の義勇兵を集めるように言われ、4月2日にオハイオに発つまでに、少なくとも160人の兵を集めた。 辺境地帯の森林の中を進むうち、ウィンチェスターで、それ以上に多くの者がワシントン軍に参加した 。またこの時点で、大尉のトレントから、フランスが進軍していることを聞かされた。トレントは、タナチャリゾンが、イギリス軍援助のために兵を出すと約束する旨の手紙を持ってきていた。タナチャリゾンの約束のためにも、ワシントンは、引きかえすことなく、前進しようと決めた。そしてワシントンは、グレート・メドウズと呼ばれる場所(現在のペンシルバニア州ファイエット郡)に着いた。オハイオ川の起点から南に37マイル(約59.5キロ)のこの地に、ワシントン軍は小さな砦を建設し始め、そこでさらなる知らせや命令を待つことにした。 コントルクールは、兵が相手方から挑発行為を受けたりしない限り、相手は攻撃してはならないと命令を受けていた。彼は、5月23日、ジョゼフ・クーロン・ド・ヴィリエ・ド・ジュモンヴィユを35人の兵と共に、ワシントンがフランス領内に足を踏み入れていないか偵察に行かせ、部隊を退却させるための命令書を持たせた。この書状は、4か月前に、ワシントンがフランスに対して持って行ったのと、本質的には同じだった。 5月27日、ワシントンは、1753年の遠征に同行した入植者のクリストファー・ギストから、近くに50人ほどのカナダ人がいるという知らせを受けた。それへの返礼として、ワシントンはギストに75人の兵を付け、そのカナダ人たちを探すように言った。その夜。ワシントンはタナチャリゾンからの手紙を受け取った。ヌーベルフランスの兵が野営している、恐らくそのうちの2人と出くわすことになるだろうと書かれていた。タナチャリゾンが、ヌーベルフランス兵を追跡させるために、別の兵たちを送りこんではいたが、ワシントンは、タナチャリゾンに会うために、40人の分遣隊を連れて出かけた。タナチャリゾンは、少年兵2人を含む12人の兵とともに待っていた。フランスの進軍について話し合ったあと、2人は彼らに襲撃をかけることで合意した。ワシントンの兵たちは、フランス軍の野営地の周囲の岩陰に身を潜め、相手は40人もいないことを確認した。
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