バージニア植民地の降伏
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2018/03/31 04:19 UTC 版)
「ジュモンヴィルグレンの戦い」の記事における「バージニア植民地の降伏」の解説
戦いの後、ワシントンは兄弟に手紙を送った。それにはこう書かれてあった。「事実だと思ってくれていい。弾丸の音を聞いた時、確かに何か惹かれるものを感じた。」この戦闘に引き続いて、ワシントンはグレートメドウズに戻り、砦の建設を推し進めた。その砦はネセシティ砦と呼ばれた。フランス軍が発見したところによると、戦場での戦死したは放置されているか、または丈の短い草の陰に埋葬されているかで、フランス軍によりその状況が発見された。 1754年6月28日、ジュモンヴィユの兄弟であるルイ・クーロン・ド・ヴィリエ率いるフランス兵、ヌーベルフランス民兵とインディアン兵混成軍600人がデュケーヌ砦を発った。7月3日、彼らは、グレートメドウズの戦いで、ネセシティ砦を攻略し、ワシントンに、武装を整えて退却するように交渉した。ワシントンが署名した降伏文書はフランス語で書かれており、ジュモンヴィユと兵士は暗殺されたと記されていた。しかしワシントンはフランス語が読めず、また、彼のための英語訳も拙いものだった。
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