バージニア政界:再編党、アメリカ合衆国上院議員
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「ウィリアム・マホーン」の記事における「バージニア政界:再編党、アメリカ合衆国上院議員」の解説
マホーンは南北戦争中の1863年にノーフォーク選出の代議員としてバージニア州議会議員に選ばれた時から約30年間バージニア州の経済と政治の世界で活躍した。1877年に州知事選で落選したあと、民主党員、共和党員およびアフリカ系アメリカ人の連衡である再編党の指導者となった。再編党はバージニア州の戦前の負債の減額を求め、バージニア州の一部であった新しいウエストバージニア州に相応の負債負担を求めていた。再編党の候補者ウィリアム・E・キャメロンを次の知事に選出させることに成功し、マホーン自身は1881年のアメリカ合衆国上院議員選挙で再編党公認で選ばれた。上院では民主党と共和党が37対37の同数となり、第3の政党の議員は民主党を選ぼうとしていたので、マホーンの票がどの政党が上院を支配するかを決めることになった。最終的に共和党を選んだことは高価なものについた。アメリカ合衆国上院では新議員であったにも拘わらず、影響力ある農業委員会の委員長となり、ジェームズ・ガーフィールド大統領からも、また上院の書記官と警備局長を選ぶ権利によっても、バージニア州に対する連邦政府の後援を掴むことができた。 共和党と連携すると、1884年と1888年の共和党党員集会でバージニアの代表を率いたが、1886年の上院議員選挙では民主党ジョン・W・ダニエルに敗れた。1889年、共和党公認で知事選挙に出馬したがフィリップ・M・マッキニーに敗れた。バージニア州知事公邸に民主党員ではない知事を次に送り込むまでに80年を要した(1969年の共和党知事A・リンウッド・ホルトン・ジュニア)マホーンは公職からは離れたが、疲れを知らぬかのようにバージニアが関わる政界に留まり、1895年の秋にワシントンD.C.で破壊的な卒中を起こすまで続けた。マホーンはその1週間後に死んだ。68歳。未亡人のオテリアは1911年に死ぬまでピーターズバーグで暮らした。 マホーンは生きてその結果を見ることはなかったが、バージニア州とウエストバージニア州はバージニア州政府の負債の取り分について何十年間も争った。この問題は1915年に合衆国最高裁判所でウエストバージニア州は$12,393,929.50を負担すると裁定して最終決着した。この負債の最終支払は1939年のことだった。
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