バージニア州知事と外交官
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/07/19 08:10 UTC 版)
「ジェームズ・モンロー」の記事における「バージニア州知事と外交官」の解説
在フランス大使を辞めたモンローは法律実務に戻っていたが、1799年にバージニア州知事に選出されこれを1802年まで務めた。1800年にガブリエルの奴隷反乱が起こったときはその鎮圧のために州兵を招集した。反乱に参加したガブリエルとその他26人の奴隷は絞首刑に処された。これに反応したバージニア州などの議会は自由黒人の制限と、奴隷の教育、移動および雇用を制限する法を成立させた。 ジェファーソン政権の最初の任期中に、モンローはルイジアナ買収の交渉にあたるロバート・R・リヴィングストンを支援するためにフランスに派遣された。その後の1803年から1807年には在イギリスアメリカ合衆国全権公使に指名された。1806年にはジェイ条約に代わるイギリスとの条約交渉にあたったが、これにはイギリスがアメリカ人水夫を強制徴募することを禁じる条項が無かったために、ジャファーソンがその批准を拒んだ。その結果、両国は1812年の米英戦争に向けて突き進むことになった。 伝統的な党の「1798年の原則」に固執することを主張した南部の「古共和党員」がモンローを選んで1808年に大統領選挙に担ぎ出した。ロアノークのジョン・ランドルフが運動を指導して、ジェファーソン大統領によるジェームズ・マディソンの後継者指名を阻止しようとした。ジェファーソンは1807年の外交問題でモンローを冷遇していたので、モンローは政権から疎遠になっていた。しかし、民主共和党を常に牛耳ってきたバージニア政界の中心人物やその他の要素も絡んで、1808年の選挙はマディソンで落ち着くことになった。
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