バージニア州の銀行構造
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2018/07/09 12:12 UTC 版)
「ネーションズバンク」の記事における「バージニア州の銀行構造」の解説
1937年、アメリカン・トラスト社長となる前の若きアディソン・リーズが、連邦預金保険公社の代理人としてバージニア州の銀行をストレステストした。証券取引委員会が投資信託で指揮系統をごまかした事実上のコンツェルンをあちこちで暴きまくった時代である。ヴァージニアでも銀行が公共事業としてファンドを立ち上げてコンツェルンをつくるということが行われていた。この手法がフロリダから広まってきたことも徐々に解明されていった。そこで1948年、法改正によって本店から離れた都市へ銀行が進出することができなくなった。証券取引へのマークは緩かった。十年ほどかけて成長した国内機関投資家が証券業を州際化した。情報だけニューヨーク証券取引所に送って、私募債取引やブロック取引は地方取引所の店頭市場で行うという習慣が定着したのである。この潮流にバージニアだけ遅れるわけにもゆかなかった。1962年、バック・ホランド法(Buck-Holland Bill)を制定して、バージニア州は距離制限を残しながらも、銀行が本店所在自治体を離れて支店を設けることができるようにした。1966年には連邦法が2件改正された。銀行持株会社法(Bank Holding Company Act of 1956)と銀行合併法(Bank Merger Act of 1960)である。 銀行合併法は競争要因の具体的な適用基準が示されておらず、また、銀行合併と反トラスト法の関連も明らかにしていなかった。運用については当局の間で見解が分かれていたが、1963年6月に連邦最高裁がフィラデルフィア・ナショナル銀行(Philadelphia National Bank)の合併はクレイトン法に違反すると判決した。1965年までに、米司法省は銀行監督機関が認可した合併のうち8件を提訴したが、そのうち6件で司法省が勝訴し、他の2件は和議によって解決された。一連の事件は銀行合併法の欠陥を明らかにした。1966年の法改正は司法省の訴追手続に若干の制約を加えただけで何も解決を与えなかった。1966-70年に米司法省は75件の企業合併をクレイトン法違反で訴追したが、そのうち29件が銀行合併であった。1968年、司法省は「合併ガイドライン」を公表し(『公正取引』No.215, 1968)、もっとも争点化しやすい水平的合併の市場集中度を訴追基準として数量化した。多くの議論を経て作成されたガイドラインは、(1978年州際銀行法が制定されたのち)レーガノミクスが規制権限を連邦準備制度に移したせいで骨抜きにされた。 こうして生まれたのが、「政府」を名乗ってはばからないソヴラン銀行(Sovran Bank)であった。 1989年春、NCNBがC&S(Citizens & Southern National Bank)にテークオーバーを仕掛けて失敗した。危機感からC&Sは直ちにソヴラン銀行と合併した(完了は1990年9月1日)。しかし南東部の不況と首都圏の住宅ローンが不良債権として累積したことが新銀行の株価を下げた。そこで1990年末にNCNBが三行の合併をもちかけた。6ヶ月以上も調整し、大合同は実現した。連邦準備制度は11月29日に営業認可を出した。1992年1月2日、ネーションズバンクは公式に開業した。
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