バージニア州における旅団と師団の指揮
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「アブナー・ダブルデイ」の記事における「バージニア州における旅団と師団の指揮」の解説
ダブルデイは1861年5月14日に少佐に昇進し、6月から8月はシェナンドー渓谷で砲兵部門を指揮し、その後ポトマック軍ナサニエル・バンクス少将師団の砲兵隊を指揮した。1862年2月3日に志願兵の准将に指名され、ポトマック軍が半島方面作戦を遂行する間、北バージニアでの任務に就いた。初めて戦闘に参加したのは、北バージニア方面作戦の間、バージニア軍第3軍団第1師団第2旅団を率いてだった。第二次ブルランの戦い直前、ブローナー農園での戦闘で、優勢な南軍部隊に対して支配下の2個連隊をジョン・ギボン准将旅団の援軍に送るという独創性を発揮し、戦いを膠着状態に持ち込んだ(当時指弾指揮官のルーファス・キング准将がてんかんの発作を起こして指揮不能だったので、個人的な独創性が必要だった)。その後指揮官はジョン・P・ハッチ准将に交代した。ダブルデイの部隊は南軍ジェイムズ・ロングストリート少将の軍団と遭遇した時に壊走させられたが、翌8月30日までにハッチが負傷してダブルデイが師団指揮を執り、兵士達を指揮して北軍の撤退をカバーすることができた。 ダブルデイはまた師団を率い、ハッチが再度負傷したサウス山の戦い後、ポトマック軍第1軍団に割り当てられた。アンティータムの戦いではトウモロコシ畑と西の森での激しい戦闘で指揮を執り、ある大佐はダブルデイのことを「勇敢な士官...驚くほど冷静でまさに前線に立っていた」と表現した。乗っていた馬の近くで砲弾が爆裂し地面に投げ出されたときに負傷した。アンティータムでの功績で正規軍の中佐に名誉昇進し、1863年3月には、1862年11月29日付けで志願兵の少将に昇進した。1862年12月のフレデリックスバーグの戦いでは、その師団はほとんど何もできなかった。その冬の間、第1軍団が再編され、ダブルデイは第3師団指揮官となった。1863年5月のチャンセラーズヴィルの戦いでは、その師団は予備隊にとって置かれた。
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