バージニア州の設立
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2017/10/08 05:23 UTC 版)
「リチャード・ブランド」の記事における「バージニア州の設立」の解説
1775年にバージニアでも独立の動きが高まり、従来の植民地議会と委員会に替わる会議体が特別政府として創られた。この年、ブランドは植民地議会に出席し、新しい会議体にも3会期出席した。3月の議会で、パトリック・ヘンリーの「自由を。然らずんば死を」の演説の後、ブランドはまだ武器を持って立ち上がることに反対し、その動議を否決させた。ブランドはイギリスと和解することがまだ可能であり、望ましいと思っていた。それにもかかわらず、ブランドは安全委員会の委員に指名され、大陸会議代表にも再選された。5月にフィラデルフィアに行き第二次大陸会議に出席したが、健康と視力の衰えにより身を引くことにし、間もなく帰郷した。しかし、急進的な面は強くなり、7月のバージニア議会では、イギリスのバージニア総督ダンモア卿の死刑を主張した。 1776年の最初のバージニア議会で、ブランドは年齢と健康を理由に大陸会議の代表選出を辞退した。しかし、残るバージニア議会では活動的な役割を演じた。ブランドはバージニアの最初の憲法の草案を作る委員会に参加した。新しい州政府のための議会議員が選ばれたとき、ブランドもその一員となった。 ブランドは新しい議会で活動中の1776年10月26日、ウィリアムズバーグで亡くなった。11月に遺体が故郷に戻りジョーダンズ・ポイントブラント家の墓地に埋葬された。 バージニア州ブランド郡およびリチャード・ブランド大学は、ブランドの名前に因むものである。
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