バージニア植民地総督とは? わかりやすく解説

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バージニア植民地総督

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2019/08/01 15:22 UTC 版)

ジョン・マーレイ (第4代ダンモア伯爵)」の記事における「バージニア植民地総督」の解説

ダンモア卿はバージニア植民地総督として1771年9月25日着任してから1776年にそこを離れてニューヨーク向うまで活発に任務遂行した1783年アメリカ合衆国の独立認められるまで総督地位にあり続け、それに対す報酬受け取っていた。 バージニアではイギリスとの確執大きくなっていたが、前任者のボトトート卿はわずか5年間を務めただけでも人気のある総督だった。ダンモアは外交的な素養欠けており、植民地人々とは論争の多い関係を続けることになった総督在任中にダンモアの戦争呼ばれるインディアン対す一連の攻撃作戦指示した。これら攻撃主たる対象ショーニー族であり、その目的西部の特にオハイオ領土対すバージニア領有権主張強化することだった。しかし、ダンモアがショーニー族結託してバージニア民兵隊を消耗させる戦争仕掛けているのであり、植民地反乱起こったときにロイヤリストを守る手段にしていると告発する者もいた。 バージニア植民議会1773年3月イギリス指導層自分達の関心事伝えるために通信委員会の組織化を提案したとき、ダンモアは即座に議会解散させた。議員多く程近いローリー酒場集結し新たな課税イギリス本国代表権持っていないことなどの問題に関する議論続けた当時マサチューセッツ湾植民地人々イギリス対す確執があり、イギリスからは懲罰的処置が採られていた。再招集され植民地議会マサチューセッツ支持する姿勢を示すために、1774年6月1日バージニアにおける断食祈りの日とする決議行った。 ダンモアは1774年から植民地指導層衝突するようになった植民地政情不安が増すにつれてバージニア民兵隊から暴動に必要とされる軍需物資奪っておく必要がある考えた8月バージニア会議では大陸会議派遣する代表団選出された。ダンモアはこのことに反対する声明発したが、特に対抗手段を採らなかった。パトリック・ヘンリー1775年3月23日第二次バージニア会議で「私に自由を、然らずんば死を」という演説行い武装抵抗組織結成する決議提案した。このことでダンモアは、「この場所にある火薬庫火薬除去した方が賢明だ考え」ることになった。ダンモアはイギリス海軍の軍艦HMSマグダレン指揮官であるヘンリー・コリンズ艦長ウィリアムズバーグ火薬庫の鍵を与え、そこから火薬除去するよう命じた。これが火薬事件呼ばれるうになる出来事になった4月20日夜、イギリス海兵隊ウィリアムズバーグ火薬庫行って15半の火薬総督荷車積みジェームズ川に浮かぶHMSマグダレン積み込むべくクォーターパス道路東端まで運んだ。この動きが行われている間に町の民に見つかり、民衆警鐘鳴らした地元民兵現場集まり、馬を使う者達が植民地中にその事件を触れ回った

※この「バージニア植民地総督」の解説は、「ジョン・マーレイ (第4代ダンモア伯爵)」の解説の一部です。
「バージニア植民地総督」を含む「ジョン・マーレイ (第4代ダンモア伯爵)」の記事については、「ジョン・マーレイ (第4代ダンモア伯爵)」の概要を参照ください。

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