バージニア植民地総督
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「ジョン・マーレイ (第4代ダンモア伯爵)」の記事における「バージニア植民地総督」の解説
ダンモア卿はバージニア植民地総督として1771年9月25日に着任してから1776年にそこを離れてニューヨークに向うまで活発に任務を遂行した。1783年にアメリカ合衆国の独立が認められるまで総督の地位にあり続け、それに対する報酬も受け取っていた。 バージニアではイギリスとの確執が大きくなっていたが、前任者のボトトート卿はわずか5年間を務めただけでも人気のある総督だった。ダンモアは外交的な素養が欠けており、植民地の人々とは論争の多い関係を続けることになった。 総督在任中にダンモアの戦争と呼ばれるインディアンに対する一連の攻撃作戦を指示した。これら攻撃の主たる対象はショーニー族であり、その目的は西部の特にオハイオ領土に対するバージニアの領有権主張を強化することだった。しかし、ダンモアがショーニー族と結託してバージニアの民兵隊を消耗させる戦争を仕掛けているのであり、植民地で反乱が起こったときにロイヤリストを守る手段にしていると告発する者もいた。 バージニア植民議会が1773年3月にイギリスの指導層に自分達の関心事を伝えるために通信委員会の組織化を提案したとき、ダンモアは即座に議会を解散させた。議員の多くは程近いローリー酒場に集結し、新たな課税やイギリス本国に代表権を持っていないことなどの問題に関する議論を続けた。 当時マサチューセッツ湾植民地の人々もイギリスに対する確執があり、イギリスからは懲罰的処置が採られていた。再招集された植民地議会はマサチューセッツを支持する姿勢を示すために、1774年6月1日をバージニアにおける断食と祈りの日とする決議を行った。 ダンモアは1774年から植民地の指導層と衝突するようになった。植民地の政情不安が増すにつれて、バージニアの民兵隊から暴動に必要とされる軍需物資を奪っておく必要があると考えた。8月のバージニア会議では大陸会議に派遣する代表団が選出された。ダンモアはこのことに反対する声明を発したが、特に対抗手段を採らなかった。パトリック・ヘンリーが1775年3月23日の第二次バージニア会議で「私に自由を、然らずんば死を」という演説を行い、武装抵抗組織を結成する決議を提案した。このことでダンモアは、「この場所にある火薬庫の火薬を除去した方が賢明だと考え」ることになった。ダンモアはイギリス海軍の軍艦HMSマグダレンの指揮官であるヘンリー・コリンズ艦長にウィリアムズバーグの火薬庫の鍵を与え、そこから火薬を除去するよう命じた。これが火薬事件と呼ばれるようになる出来事になった。4月20日夜、イギリス海兵隊がウィリアムズバーグ火薬庫に行って、15樽半の火薬を総督の荷車に積み、ジェームズ川に浮かぶHMSマグダレンに積み込むべくクォーターパス道路の東端まで運んだ。この動きが行われている間に町の民に見つかり、民衆は警鐘を鳴らした。地元の民兵が現場に集まり、馬を使う者達が植民地中にその事件を触れ回った。
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