第1次アングロ・ポウハタン戦争(1610年-1614年)
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「バージニア植民地」の記事における「第1次アングロ・ポウハタン戦争(1610年-1614年)」の解説
詳細は「第1次アングロ・ポウハタン戦争(英語版)」を参照 そして1609年、対立は戦闘へと発展した。ジョン・スミスはポウハタン族の酋長たちを武力で脅迫し、略奪と虐殺を繰り返したが、その年に爆発事故で負傷し、同年12月には帰国を余儀なくされた。 翌1610年、バージニア植民地総督に任じられた第3代デラウェア男爵トマス・ウェストは同年夏にジェームズタウンに到着した。インディアン部族との戦闘に備え、デラウェアはアイルランド方式の戦略を導入した。そしてポウハタンの村へと侵入し、家屋を燃やし、食料を略奪し、トウモロコシ畑に火を放って焦土作戦を推し進めた。 ポウハタン酋長としては、入植地が拡がらなければ、金属製品などの入手を続けられるので、連邦の利益になると考えていた。調停者であるポウハタン酋長は友好回復の機会をうかがっていた。そして、そのような機会を作ったのは、ポウハタン酋長の娘、ポカホンタスであった。
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