第1次ウェリントン公爵内閣 (1828年-1830年)
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「アーサー・ウェルズリー (初代ウェリントン公爵)」の記事における「第1次ウェリントン公爵内閣 (1828年-1830年)」の解説
1828年1月20日に大命を拝受し、22日に第1次ウェリントン公爵内閣(英語版)を成立させた。この際に陸軍総司令官職は辞した。 ウェリントン公爵の内閣にはハスキソン、パーマストン子爵、メルバーン子爵など多くのカニング派閣僚が参加していたが、彼らは5月から6月にかけて腐敗選挙区削減問題で内務大臣ピールと対立を深め、一斉に辞職してしまった。このためにウェリントン公爵内閣は早々に政権基盤が不安定になった。 一方野党ホイッグ党はランズダウン侯爵派と再統一して、カトリック問題などで与党に対する攻勢を強めてきた。また1828年7月にはアイルランド独立を目指すアイルランド・カトリックのダニエル・オコンネルが庶民院議員に当選するも国教徒でないことを理由に議場に入る事を認められず、カトリック解放の機運が高まった。 ウェリントン公爵は頑迷なカトリック解放反対派というわけではなく、この頃にはカトリックへの譲歩も考えるようになっていた。ピールや国王を説得のうえ、1829年3月にカトリック解放法案を議会に提出、4月に可決させた。これによって17世紀以来議会から締め出されていたカトリックに庶民院議員の道が開けた。だがカトリック解放に反対するウルトラ・トーリー(英語版)が事実上トーリー党から離反してしまい、これが裏目に出てウェリントン公爵の政治基盤は強化されるどころか弱体化した。 またカトリック問題が落ち着いたのも束の間で、今度は選挙法改正の機運が高まっていき、ホイッグ党若手議員のリーダーであるジョン・ラッセル卿が腐敗選挙区廃止と大都市の議席増を内容とする選挙法改正法案を議会に提出してきた。なんとか同法案を否決に追い込んだものの、これによって逆にホイッグ党の反政府団結力は強くなった。 1830年6月26日にジョージ4世が崩御し、その弟であるウィリアム4世が新国王に即位したこともホイッグ党にとって有利な材料となった。ジョージ4世はホイッグ党やホイッグ党党首グレイ伯爵のことを嫌っていたが、ウィリアム4世はグレイ伯爵と交友があり、ホイッグ党に対しても比較的好意的だったのである。 当時のイギリスの慣例で新国王の即位に伴って解散総選挙(英語版)が行われたが、トーリー党が250議席、野党(ホイッグ、カニング派、ウルトラ・トーリー)が196議席、無所属・所属不明が212議席という結果になった。一応多数派を得たトーリー党だったが、野党の団結は進み、11月2日にウェリントン公爵が「選挙法改正は行わない」と議会で明言したことにより、政府打倒の機運は最高潮に達した。この空気に呑まれてもともと選挙法改正に反対していたウルトラ・トーリーまでもが倒閣に協力した。 その結果、11月15日には政府提出の王室費に関する法案に反対するホイッグ党の動議が233対204で可決される事態となり、ウェリントン公爵は総辞職を余儀なくされた。ここに半世紀にわたったトーリー党政権は倒れ、グレイ伯爵を首班とするホイッグ党政権が誕生するに至った。
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