第1次イタリア侵攻
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/02/12 06:58 UTC 版)
「アラリック1世」の記事における「第1次イタリア侵攻」の解説
アラリックは次いで西ローマ帝国に攻撃を加えた。 アラリックは一度北のドナウ川流域に出て、いくつかのゲルマン部族を傘下に収めたのち、イタリアに侵入した。アラリックによる最初のイタリア侵攻は、おそらく401年になされたと考えられる。その本来の目的は、ローマでの栄達の道を開いてほしいと要請するためのものであった。アラリックはローマの栄光に魅了されており、ゴートの民にアラリックスと呼ばせようとした。ただし、ローマに従属するためではなく、同族を守るための地位とローマに対する発言力強化がその目的であった。アラリックは北イタリアに略奪の手を広げ、ローマの市民に襲撃の恐怖をもたらした。スティリコはその時、ラエティア(ほぼ現在のスイス)でアラマンニ族と戦っていたが、この報を聞き、急遽彼らを降伏させてイタリアへと急行した。アラリックはスティリコと、現在のピエモンテ州ポルレンティア(英語版)に相見えることとなった。402年4月6日、ポルレンティアの戦い(英語版)でローマは大勝利を挙げる。アラリック率いるゴート軍はおびただしい犠牲を出して、その前進を阻まれた。 スティリコの敵は、キリスト教の重要な祭日(この年のイースターにあたった)に不敬虔な戦闘で勝利を得たといって彼を非難した。アラリックはローマ帝国の正統な国教であったカトリック教徒ではなく、アリウス派の信徒であり、ゴート族の古くからの異教の祭典も続けていた。しかし、アラリックも信条に違いはあってもローマ帝国と同様にキリスト教徒で、キリスト教の祭日に敬意を払っていた。アラリックの妻がこの戦闘で捕虜となったと伝えられているが、この一件は決してでたらめではないと思われる。アラリックと西ゴート軍の一隊は、イタリア侵攻を民族移動の機会と考えて多数の女性と子供を連れていたため、移動がもたついていたのである。郷土史家によれば、ポルレンティアは衰退して住民たちは近郊の台地上のより安全なブラに移ったが、周辺のいくつかの地名(Gottaなど)はゴート人の呼称に由来しており、アラリックの敗走後、本隊から切り離されてこの地に取り残されたゴート族の兵士たちがいたことを示すという。 403年、アラリックはダルマティアからポー平原へ出てヴェローナに立てこもったが、スティリコにより撃退され、イタリア半島を後にする。アラリックはローマに進軍することはできなかったが、彼のイタリア侵攻は重要な歴史的結果をもたらしている。402年、ホノリウス帝は西ローマ帝国の宮廷をミラノからラヴェンナへと移転させた。遷都には、第一に防衛目的があった。ラヴェンナは泥沢地と湿地に囲まれ、そして東ローマ帝国の軍との行き来に安心であった。また、ブリテン島から第20軍団が引き揚げる必要が出たのである。409年、ローマ帝国はブリタンニアを放棄し、4世紀にわたるローマによるブリテン支配は終わりを告げた。これは、ピクト人の南下やサクソン族のブリテン侵入の契機となった。
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