第1次ゲイリベレーション(1970年代〜80年代初頭)
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「日本における同性愛」の記事における「第1次ゲイリベレーション(1970年代〜80年代初頭)」の解説
東郷健の参院議員選挙立候補に続いて、1976年11月、ゲイ団体「日本同性愛者解放連合」が結成され、10人近いグループで数年間活動した。1977年3月は「フロントランナーズ」が結成され6人前後のメンバーでやはり数年間活動した。どちらも機関紙の発行には至らなかったが、積極的にミーティングを重ねた。また1977年5月、既成のゲイ雑誌に不満を持つ人たちが、ゲイリベレーションを編集趣旨として美少年マガジン「プラトニカ」を発刊。同誌を母体に「プラトニカ・クラブ」が結成され、1979年に最終4号を出して解散した。1979年3月、このプラトニカ・クラブから数人が参加してJGC(ジャパン・ゲイ・センター)が結成され、ミニコミ「GAY」を8号まで、「CHANGE」を2号まで出すも、1982年に解散した。JGCはメディアや文化人にミニコミを送付したり、差別的な報道に抗議したりした。1979年はまた、東郷健が「雑民党」の前身の「雑民の会」を設立した年でもあった。 1978年にはTBSラジオ『スネークマンショー』の「ウェンズデースペシャル」で、タックがパーソナリティを担当し、ゲイに関する話題を取り上げた。タックを中心にミニコミ「ウェンズデーニューズ」を発行し、「OWC(アウアズ・ワーク・コミュニティ)」というゲイのグループも生まれた。同じ頃、ゲイ雑誌薔薇族内に設けられた18歳未満の若いゲイ達が投稿する「少年の部屋」からムーブメントが起こり、1981年に大阪で10代中心のゲイ少年サークル「ドリーム・メンズ・グループ」が発足する。また同年、日本在住の外国人ゲイによる「イングリッシュ・スピーキング・オルタネート・ライフスタイル・サポートグループ」が結成された。途中で日本のゲイにも気軽に参加してもらおうと「東京ゲイサポートグループ」に改め、1984年頃から機関誌「COMING OUT」を発行し、TEL相談、月数回のイベント開催などを行った。但しこの頃のゲイ団体は、一部を除いては余り長続きはしなかった。 またこの時代に前後して、美輪明宏、東郷健、おすぎ、ピーコといった著名人が自伝などで自らの同性愛を明かし、しばしばベストセラーになった。
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