初期から独立戦争まで
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/20 02:01 UTC 版)
「ノーフォーク (バージニア州)」の記事における「初期から独立戦争まで」の解説
1619年、バージニア植民地総督ジョージ・ヤードレーは、植民地の中でも開発の進んだ場所に、植民地議会下院の基となる「シティ」(Cittie)という名の法人を4つ創設した。後にノーフォーク市となったこの地はエリザベスシティ法人の領域に含まれた。1634年、チャールズ1世がバージニア植民地の行政区画を再編し、8つのシャイアを導入すると、エリザベスシティはエリザベスシティシャイアになった。 1622年にイングランド・ノーフォークカウンティのキングスリンから年季奉公人としてバージニアに入植したアダム・サラグッドは、契約期間が切れて自由の身になると、まだ歴史の浅いこの植民地のリーダー的な市民となった。1636年には、サラグッドは105人にこの植民地に入植するように説得し、リンヘイブン川沿いの広範囲にわたる土地を与えられた。同年、エリザベスシティシャイアのうち、ハンプトン・ローズの南側、サウス・ハンプトン・ローズと呼ばれる地域が郡に分割されることになると、サラグッドは生まれ故郷のノーフォークカウンティにちなんで、この郡をニューノーフォーク郡と名付けた。翌1637年、ニューノーフォーク郡はサラグッドの勧めで、アッパーノーフォーク郡とロウアーノーフォーク郡に分割された。 17世紀後半に入ると、「ハーフムーン」の砦が建設され、また10,000ポンド(約4,500kg)のタバコと引き換えに50エーカー(約202,000m²)の土地を得て、ノーフォークは成長した。1680年、植民地議会は、今日のノーフォークの基となるロウアー・ノーフォーク・カウンティ町を創設した。1691年、ロウアー・ノーフォーク郡はノーフォーク郡(現在のノーフォーク、チェサピーク、およびポーツマスの一部)およびプリンセス・アン郡(現在のバージニアビーチ)に分割された。1736年には、ジョージ2世の勅令により、ノーフォークは正式な町(ボロウ)として法人化された。 1775年頃には、ノーフォークはバージニア植民地で最も発展した都市であった。当時のノーフォークは、イギリスやその先に物品を輸出するための重要な港であった。商人たちの取引は大英帝国とつながり合っていたため、独立戦争の開戦間もない頃のノーフォークではロイヤリストが強い勢力を持っていた。当時のバージニア植民地総督であったダンモア伯爵は、植民地の首都ウィリアムズバーグからノーフォークに逃げ延び、体制の立て直しを図った。ダンモアはノーフォークで小さな勝利を収めたものの、やがてウィリアム・ウッドフォード大佐率いるパトリオットに追い詰められ、植民地から追い出された。ダンモアの追放によって、バージニアにおける168年におよぶイギリスの支配は終わった。 1776年の元旦、軍艦3隻からなるダンモアの艦隊は、8時間以上にわたってノーフォークの街を爆撃した。爆撃に加え、イギリス軍が火を放ち、その火をパトリオットが広げたことで、ノーフォークの街の約2/3、800棟以上の建物が破壊された。同年2月には、戦略的理由からパトリオットが残った建物を破壊した。後には聖パウロ監督教会の壁のみが残った。
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